第七十九話 王国は、麦を奪う国から麦を作る国へ変わり始めた
王都アルディア。
国王アルベルト三世は、各地の収穫報告を読み終えた。
平年の四割。
前年よりは増えたが、誰も豊作とは呼ばなかった。
「種麦の差し押さえを禁ずる。収穫前の徴発を禁ずる。農地保護隊を設ける」
宰相ユリウスが王命を読み上げた。
カールは尋ねた。
「保護隊が麦を奪ったら、誰が止めるのですか」
国王は答えに詰まった。
「王命を破った兵は罰する」
「罰するのは誰です。村から王都まで訴えに来る食料もない農民は?」
エリクは一枚の白紙を差し出した。
「村で記録できるようにしましょう。村の代表と書記が控えを持ち、字の読めない人の訴えは広場で読み上げる。王都にも同じ記録を送ります」
「監察には金がかかる」とユリウス。
「監察しない兵は、また徴税官になります」
最初の監察が始まった三日後、農村から一通の訴えが届いた。
『保護隊の兵が鶏を一羽持ち去った』
「たかが鶏一羽だ」
若い隊長はそう言った。
農婦は返事をせず、空になった鶏小屋の扉を開けた。
内側には、娘が描いた小さな鶏の絵が貼られていた。
「この子は毎朝、卵を取りに行くのを楽しみにしていたんです」
隊長は初めて、自分が奪ったものを数え直した。
エリクはすぐには裁きを告げず、農婦自身の言葉を聞くよう隊長に求めた。
「卵を産む鶏でした。娘が病気のとき、その卵を食べさせるつもりでした」
隊長は目を伏せた。
「一羽を盗めば、来月の卵も盗んだことになるんです」と農婦。
カールは兵士に鶏を返させ、隊の食料は配給所から受け取るよう命じた。
農婦には卵の損失も補償した。
だが、その翌週には逆の苦情が届いた。
『火事を見つけた保護隊が、井戸を使う許可を待って消火が遅れた』
「勝手に使うなと言われたからです」と兵士。
村長は苦い顔をした。
「火事なら、聞かずに汲めばよかっただろう」
「どこまでが勝手で、どこからが必要なのか、俺たちには分からなかった」
エリクは両者を同じ机に着かせた。
緊急時は井戸を使える。
ただし翌朝までに使用を報告し、損害が出れば補償する。
村人も兵士も、異議を記録できる。
取り決めを読み上げると、農婦が尋ねた。
「この約束が破られたら?」
「次の監察を待たずに訴えられます。記録は村にも残します」
農婦はしばらく考え、若い兵士に水の入った椀を差し出した。
「盗まないなら、井戸の水くらい飲んでいきな」
兵士は両手で受け取った。
王都へ戻ったエリクは、王命の余白に新しい一文を加えた。
『農地を守る者も、農地で暮らす者も、同じ記録によって責任を問われる』
数日後、同じ村から新しい報告が届いた。
井戸のそばに、木の板が立てられたという。
水を汲んだ者の名と時刻、壊れた桶の修繕費、村が負担する分と保護隊が負担する分。
どれも大げさな数字ではなかった。
報告を読み終えた国王は、エリクに尋ねた。
「これほど小さな争いまで、王都で確かめる必要があるのか」
「全部を王都で裁く必要はありません。でも、村で決めたことが破られたとき、誰かに届く道は必要です」
国王は板に書かれた農婦の名を指でなぞった。
「この者は字が読めないのだな」
「はい。だから、村の書記が本人の前で読み上げ、印を押してもらいました」
「ならば書記が嘘をついたら?」
「もう一人、立会人を置きます。村の代表でも兵でもない人を」
国王は頷き、宰相に命じた。
「王命の最後に加えよ。訴えを受ける者も、訴えられる者も、記録から逃げられぬように」
翌週、同じ井戸に農婦と兵士が並んだ。
兵士は自分の番まで待ち、直した桶を農婦に渡した。
「今日は鶏を持っていかないのかい」
「持っていきません。代わりに、桶がまた壊れたら呼んでください」
村の子供が笑った。
兵士も笑った。
その日の記録には、苦情ではなく「桶の修繕完了」と一行だけ残った。




