第七十六話 四千の軍勢に対し、農民たちは鎌を置かなかった
グレイン侯爵軍、四千人。
収穫を始めたアルト村へ向けて、その軍勢が進んでいた。
「麦は何袋ある」
侯爵が尋ねる。
「数千袋になる見込みです」
「ならば奪え。畑は焼くな。来年も税が取れる」
村の広場で報告を受けたカールは、地図に赤い石を置いた。
農地防衛隊、王都からの援軍、元ヴァルシア軍の兵士を合わせて約二千人。
正面から勝てる数ではない。
「敵の先頭を止める。だが目的は敵兵を倒すことじゃない。収穫する時間と、村人が逃げる時間を稼ぐことだ」
村長ハインツが顔を上げた。
「鎌を持つ者まで戦わせるのか」
「鎌は麦を刈るために使ってください」
エリクは農民を収穫班と輸送班に分け、北の小道に避難路を定めた。
鐘が三度鳴ったら作業をやめる。
負傷者と子供は先に退く。
「麦を置いて逃げろというのか!」
老人が怒鳴った。
「死んだ人には、来年の麦を作れません」
エリクは答えた。
「守りたいのは麦だけじゃありません。あなたたちです」
最初の矢が柵に突き刺さった。
カールの盾兵が土塁に並ぶ。
侯爵軍の先頭千人が押し寄せ、柵の一角が崩れた。
戸板を担架にした農民が倒れた兵士を運ぶ。
その脇で、麦を刈る鎌が動き続けた。
「あと三台!」
ハインツが叫んだ。
だが、午後になって斥候が駆け戻った。
「敵の騎兵が東の浅瀬へ! 北の避難路に回り込むつもりです!」
カールは地図を見た。
浅瀬を越えられれば、村人は畑と敵兵の間に閉じ込められる。
「予備隊二百を浅瀬へ。勝とうとするな。最後の荷車が渡るまで道を塞げ」
「二百では持ちません!」
「分かっている。だから時間を決める」
エリクは川沿いの荷車を見た。
麦袋が四十。
だが子供と負傷者を乗せれば、麦を降ろさなければならない。
「……袋を降ろしてください」
農夫セドが彼の胸ぐらをつかんだ。
セドの父はこの畑で倒れた。
父と二人で蒔いた畝を、彼は朝まで守ろうとしていた。
「俺たちが命がけで刈った麦だぞ!」
「分かっています」
「分かっているなら、どうして捨てる!」
エリクは答えを探した。
十年前、妹を食わせるために麦を奪い、若い兵士を殺した。
あのときの自分なら、荷車を人より先に通したかもしれない。
「麦はまた作れます。でも、ここにいる子供は二度と作り直せない」
セドの手が緩んだ。
「ここを離れたら、父さんが何のために死んだのか分からなくなる」
「俺も昔、麦のために人を殺しました。でも、ここであなたまで死なせたら、来年この畑を耕す人がいなくなる」
セドは唇を噛み、土のついた手で避難名簿に署名した。
「来年は俺が蒔く。だから……生きて戻らせてくれ」
「必ず戻れるように、道を守ります」
クリスは子供たちを荷台に上げた。
ガルムは負傷者を背負い、カールの兵は盾を重ねて浅瀬を塞いだ。
矢が荷台に刺さり、馬が暴れる。
鐘が一度、二度、三度鳴った。
最後の荷車が北岸へ渡ったとき、カールは仮設橋の板を外させた。
敵の騎兵は迂回を強いられたが、南側の麦畑と倉庫の一棟は守れなかった。
夜、避難先の寺院で、クリスが名簿を読み上げた。
返事のない名前が三つあった。
エリクは救護所と荷車を探し回り、二人を見つけた。
最後の一人は、まだ戻らなかった。
「勝ったのか」
ガルムが尋ねた。
カールは首を振った。
「敵はまだいる。こちらも百人以上が負傷した。今日は村人を逃がしただけだ」
麦四十袋の多くは雨に濡れ、使える量は半分ほどだった。
エリクは損失を掲示した。
「人を救うために失った麦です。でも、その麦を作った家族の冬まで失わせるわけにはいきません。別の倉から補う手配をします」
セドは頷かなかった。
「約束で腹は膨れない」
「はい。だから明日の朝、輸送隊を出します。届いた量も掲示します」
セドは避難の荷車に種袋を載せたあと、空いた荷台を振り返った。
「父の畑を置いていく。でも、子供を歩かせるわけにはいかない」エリクは黙って子供を抱き上げた。
ドランは迂回路を調べ、クリスは避難所の粥の必要量を数えた。
エリクは川の向こうに残った畑を見た。
麦を守るために始まった戦いで、麦を捨てる決断をした。
避難した農民が戻るとき、種と家を用意できるか。
エリクはまだ空白の欄を見つめた。
翌朝、敵軍の角笛が再び鳴った。




