第七十五話 収穫した麦を奪うため、最後の軍隊が現れた
収穫開始の日。
アルト村の畑には、数千人の農民が集まっていた。
鎌を持つ者。
麦束を運ぶ者。
脱穀の準備をする者。
そして、周囲を警備する農地防衛隊。
エリクは畑を歩いていた。
「……刈り取った麦は、すぐに倉庫へ運んでください」
農民たちは頷いた。
「はい!」
「雨に濡れないように!」
斥候が戻り、敵軍の位置を地面に描いた。
収穫を終えたばかりの麦袋が、倉の中に積まれている。
「袋を運び出す時間は?」
「全部は無理です」
カールは輸送隊の数を報告した。
「荷車は四十台。一台に五十キロ袋を二十袋積んでも、一度で運べるのは八百袋です。倉の全部は動かせません」エリクは頷いた。
「ならば人を逃がす道と、種麦を運ぶ道を分ける。全量を守るという嘘はつかない」
エリクは畑と倉を見比べた。
守るべきものが増えたからこそ、失う怖さも増していた。
「分かっています!」
久しぶりの収穫だった。
人々の顔には笑顔があった。
だが、その日の午後。
斥候が駆け込んできた。
「……エリク!」
「どうした!」
「南西から軍勢が接近しています!」
カールが顔を上げた。
「……何人だ?」
奪いに来た兵士の足元にも、麦を蒔いた農民の足跡が残っていた。
エリクは戦いを避ける道を探したが、収穫を運び出す時間は刻々と失われていった。
収穫を狙う軍勢を見て、農夫は刈り取った麦を隠すより、畑に立ち続けることを選んだ。
見張り台から戻った少年が、敵軍の旗を見たと告げた。
農民の一人は鎌を放り出し、「家族を連れて逃げる」と言った。
誰も臆病者とは呼ばなかった。
エリクは避難路を先に確保し、残る者だけで麦を守ると決めた。
「畑は取り返せても、人は取り返せません」
それでも残った者たちは、収穫したばかりの束を抱え、倉庫へ走った。
「約四千!」
エリクは息を呑んだ。
「……四千?」
斥候は続けた。
「旗は、グレイン侯爵軍のものです!」
カールの顔が険しくなった。
「……まだ残っていたのか」
グレイン侯爵。
かつて、最後の麦畑を巡る戦争に参加した大貴族。
その軍勢は敗北し、散り散りになったはずだった。
だが、残党が再び集結していた。
目的は一つ。
収穫された麦を奪うことだった。
「……また、麦のために戦うのか」
エリクが呟いた。
カールは頷いた。
「そうだ」
ガルムが斧を握った。
「……今度こそ、終わらせようぜ」
エリクは畑を見つめた。
農民たちは、まだ収穫を続けていた。
鎌が動く。
麦束が積み上がる。
その光景を、エリクは守りたかった。
「……収穫を止めないでください」
カールが振り向いた。
「……何?」
「農民たちは、収穫を続けます」
エリクは続けた。
「戦える者だけで、敵軍を止めます」
カールは頷いた。
「……分かった」
その日。
農地防衛隊は、再び武器を取った。
だが、今度は違った。
彼らの背後には、収穫された麦があった。
守るべきものが、目に見えていた。
最後の軍隊が近づく知らせを受け、村人は麦袋を数え直した。
「戦うより先に、運べるだけ運ぶ」
エリクの指示で荷車が動き始めた。
勝っても麦を失えば、村は救われない。
収穫を奪われれば、冬だけでなく来年の種も失う。
エリクは畑を守る戦いが、未来の食卓を守る戦いでもあると悟った。
収穫の鎌が動き始めたばかりの畑で、見張りが土煙を見つけた。
農民たちは手を止め、互いの顔を見た。
戦えば、穂が踏まれる。
逃げれば、刈り取る前の麦を奪われる。
エリクは鎌を持った老人に言った。
「畑を離れる人から先に避難してください。守るために全員が死ぬ必要はない」老人は悔しそうに唇を噛み、子供たちを丘へ導いた。
先遣隊が去ったあと、老人は鐘の縄を離せなかった。
敵の少年兵が自分の孫に似ていたからだ。
カールは鐘の音を聞き、刈り取りを続ける者と避難を手伝う者を分けた。
「敵が来たら全員で戦う」は簡単だ。
だが全員が槍を持てば、誰が麦を刈るのか。
戦いの目的を見失わないための配置だった。
斥候が持ち帰ったのは敵旗だけではなかった。
グレイン侯爵の印が押された徴発状だった。
近隣の村に、収穫の半分を差し出せと命じている。
「半分で済むはずがない」
カールが紙を握り潰した。
「連中の兵も飢えている。袋を見たら全部持っていく」
倉の前では、農民たちが収穫したばかりの麦を数えていた。
年老いた男がエリクを呼び止めた。
「戦うなら、うちの息子を連れていくのか」
「守備には人手が要ります」
「去年も同じことを言われた。帰ってこなかった」
エリクは言葉を失った。
守るための軍が、守るべき家から人を奪う。
「志願者だけを募ります。畑を刈る者も、倉を守る者も必要です」
老人はしばらく黙り、息子に鎌を渡した。
「お前は刈れ。俺は見張りに立つ」
エリクはその選択を、勝利の約束で汚したくなかった。
夜の見張り台で、老人は息子の背中を見つめていた。
若者は黙々と麦を束ねている。
「怖くないのか」と老人が尋ねる。
「怖いよ。父さんが死ぬのも、麦がなくなるのも」
老人は槍を持ち直した。
「なら、刈り終わるまで見ている」
夜明け前、敵の先遣隊が現れた。
老人は鐘を鳴らしたが、槍を突き出さなかった。
敵の中に、同じくらい痩せた少年がいたからだ。
鐘の音で防衛隊が駆けつけ、少年は逃げた。
老人は震える手で槍を下ろした。
守るために立った場所で、また誰かの子を殺しかけた。
その事実だけは、勝っても消えなかった。
ガルムは鎌を持つ農民の前に立った。
かつて彼自身が麦を奪うために斧を握ったことを、誰よりも覚えている。
「俺は奪う側だった。だから言える。奪えば今日を越せても、明日の種は残らない」若い農民が尋ねた。
「それでも攻められたら?」ガルムは盾を持ち上げた。
「守る。追い払う。だが、飢えた敵の子まで殺すな」
翌朝、カールは村人たちに、戦う者だけでなく避難する者の名簿も見せた。
「戦いが長引けば、倉の麦は一週間もたない。退くときは畑より人を優先する」
若い農夫が叫んだ。
「畑を捨てろっていうのか!」
「戻って蒔く者がいなくなれば、畑だけ守っても意味がない」
ガルムは老人の持つ槍を見た。
老人は黙って頷き、息子の名を避難組に書き入れた。
誰かが逃げるためには、誰かが最後まで橋を守らなければならない。
カールは最後尾の守備位置に自分の名を書いた。
老兵が何か言いかけたが、カールは避難路を指して首を振った。




