第七十二話 洪水が去ったあと、麦畑には泥しか残っていなかった
洪水から三日後、雨がやんだ。
畑は見分けがつかなかった。
畝は泥に埋まり、境界杭は流され、家々の壁には水位の跡が残っている。
「ここが俺の畑だった」
農夫ハインツは泥をすくった。
指の間から濁った水が落ちた。
「親父が石を拾って、三十年かけて耕した土地だ。どこから手をつけろっていうんだ」
バルトが地図を広げた。
「高台の麦は残っている。だが低地は、土が流れた場所と泥が積もった場所に分かれる。全部を一度に蒔き直すのは無理だ」
エリクはまず家と井戸を調べさせた。
泥水を飲めば病人が増える。
倉庫では濡れた麦袋を一つずつ開き、食べられるものと傷んだものを分けた。
「乾かせば食えるだろう?」
村人の一人が袋を抱え込んだ。
ハインツが中央の麦を掴むと、酸っぱい匂いがした。
「これを子供に食わせるのか」
村人は袋を放した。
捨てる麦の数を帳簿に書くたび、エリクの手が重くなった。
午後、高台の畑をめぐって二人の農夫が掴み合いになった。
「その土地は俺のだ!」
「杭が流れたからって、お前のものになるか!」
片方は低地の畑を失い、もう片方は高台にわずかな麦を残していた。
エリクは二人の間に入った。
「古い地図と隣人の証言で境を確かめます。それまで残った畑は共同で守り、誰がどれだけ収穫を受け取るか先に記録します」
「共同だと? 俺の畑なのに」
高台の持ち主が睨んだ。
「あなたの権利を消すつもりはありません。ただ、今夜も食べられない家がある。収穫まで、誰も置き去りにしない方法を考えたいんです」
泥の下には、何か月も守ってきた種が眠っていた。
農民たちは失った量を数えながら、それでも残った畝を探した。
男は鍬を下ろしたが、納得した顔ではなかった。
エリクも、これで解決したとは思わなかった。
夕方、クリスが泥だらけの木箱を運んできた。
「お兄ちゃん。種を入れてた箱、見つけた」
蓋の中には濡れた藁しかなかった。
「もう、麦は生えないの?」
エリクは答えられなかった。
代わりにハインツが高台を指した。
「全部じゃない。あそこに残った穂がある。あれを守れば、来年の種になる」
「今年は?」
「今年は足りない。だから、ほかの村から分けてもらうしかない」
ハインツの言葉は苦しかった。
助けを求める相手も、豊かではない。
翌朝、農夫たちは二手に分かれた。
井戸を清め、住まいを直す者。
水路を塞ぎ、高台の麦を守る者。
エリクは泥に沈んだ道を通れるよう、石を並べる仕事に加わった。
昼、昨日争った二人が、同じ畑の排水溝を掘っていた。
「境はまだ決まってねえぞ」
一人が言う。
「分かってる。でも水が抜けなきゃ、どっちの麦も腐る」
二人は顔を見合わせず、鍬を動かし続けた。
泥の下から種袋を掘り出した農民が、袋を開いて膝をついた。
麦は水を吸い、黒く変色していた。
「水路を作ったのに、雨で全部なくなった」
バルトは土手に立ったまま動けなかった。
エリクは泥に沈んだ畝を見た。
水を引く道を作ったのに、水を逃がす道を十分に考えていなかった。
「失敗を隠さない」と彼は言った。
村ごとに被害を記録し、使える種を分け、排水路の工事を始める。
畑を失った家には配給を優先し、翌年の種を共同倉庫から貸し出す。
「返せなかったら?」と農民が尋ねた。
「収穫がなければ、返済を延ばす。種を取り立てて来年も飢えさせたら、何のための倉庫か分からない」
泥をすくうたび、鍬の刃に麦の根が絡まった。
農夫はそれを捨てず、乾いた畝の端に並べた。
何が失われたのか、翌年の作付けを考えるときに忘れないためだった。
夕暮れ、溝の先から泥水が細く流れ始めた。
歓声は上がらなかった。
ハインツの隣人は、泥に埋もれた境界杭を抜こうとして手を止めた。
杭を立て直せば、流された土地の持ち主を決め直す争いになる。
「俺の畑はここまでだった」と隣人が言う。
ハインツは否定しかけたが、二人とも証拠を失っていた。
エリクは争いを裁く前に、洪水前の村の記録と生き残った杭を集めさせた。
「今年の種を蒔く場所は先に決めます。でも土地の持ち主を、声の大きさでは決めません」
二人は泥の上に鍬を置いた。
村の集会では、泥をさらう人手をどこへ回すかで声が荒れた。
「境界が決まらなきゃ、俺は種を蒔けない」
「種を蒔かなきゃ、境界が決まる前に飢える」
エリクは二つの仕事を分けた。
争いのある区画は村の共同耕作地として一季だけ使い、収穫の配分を先に書面にする。
土地の所有は、古い記録と証言が揃うまで確定しない。
「今年の麦を育てることと、来年もここで暮らせる権利を守ること。両方やります」
誰も満足そうではなかった。
それでも、翌朝には共同の畑に最初の鍬が入った。
失った畑はすぐには戻らない。
ハインツは泥のついた鍬を肩に載せ、明日もここへ来ると言った。




