第七十一話 三か月ぶりの雨が、村を飲み込んだ
三か月ぶりの雨だった。
乾ききった屋根を、最初の雨粒が小さく叩いた。
「お兄ちゃん、雨だ!」
雨粒が乾いた土を叩く音に、村人は最初笑った。
だが水路の縁から泥水があふれると、笑い声は消えた。
足りなかった水が、今度は家を奪おうとしていた。
クリスが庭へ飛び出した。
農民たちは空に両手を伸ばし、子供たちは泥になる前の地面を跳ね回った。
エリクも思わず笑った。
しかし、用水路の水位を測っていたバルトだけは笑わなかった。
「上流の山が見えない」
「雨雲ですか?」
「山全体に降っている。あの水が一度に来たら……」
一時間後、雨脚は激しくなった。
乾いた斜面から泥水が筋になって流れ、畑の畝を削り始める。
バルトは目盛りを刻んだ杭を見て顔色を変えた。
「水位が上がるのが速すぎる。上流の見張りを呼べ!」
馬で向かった若者が、ずぶ濡れになって戻った。
「橋の下まで水が来ています! 流木が詰まって、川がせき止められている!」
カールが叫んだ。
「橋を捨てる。全員、高台へ!」
「家畜を連れ出す時間は?」
農民の問いに、バルトは首を振った。
「人が先だ。鐘を鳴らせ」
エリクは鐘楼へ走った。
鐘の綱を引くと、雨の音の中に重い響きが広がった。
一度、二度、三度。
決めておいた洪水の合図だった。
「南の道は使うな! 石橋の方へも行くな! 丘の畑へ上がれ!」
避難する人々が細い坂に集中した。
荷車が道を塞ぎ、老人が転ぶ。
エリクは荷車を脇へ寄せようとしたが、車輪が泥にはまって動かない。
「荷物を降ろせ!」
「種麦が入ってるんだ!」
「命があれば、また蒔ける!」
農民は唇を噛み、袋を置いた。
エリクとカールが荷車を押し倒し、道を開ける。
そのとき、川の方角から木が裂けるような音がした。
橋に詰まっていた流木が崩れ、濁流が一気に押し寄せた。
新しく掘った水路の土手が破れ、水が畑を越えて村の低地へ流れ込む。
「来るぞ!」
クリスがエリクの手を握った。
「お兄ちゃん、怖い」
「大丈夫だ。丘まで走るぞ」
坂の途中で、一人の老人が膝をついていた。
濡れた服が重く、立ち上がれない。
エリクはクリスを抱えたまま戻ろうとする。
「エリク、妹を連れて行け!」
ガルムが駆け寄った。
「その人は俺が運ぶ。お前は先に道を開けろ!」
待ち望んだ雨が、今度は家と畑を脅かした。
エリクは天候を恨む代わりに、次に守る堤と避難路を見つめた。
エリクはうなずき、クリスを抱えて丘へ走った。
ガルムは老人を背負い、カールが後ろから支える。
三人が高台へ着いた直後、村の中央広場に水が流れ込んだ。
一軒の家が傾き、壁が流された。
誰かが自分の名前を叫んでいる。
丘に集まった人々は、家族の数を数え始めた。
「母ちゃんがいない!」
少年が泣き叫んだ。
エリクは名前を聞き、避難した人々の列を走った。
少し離れた納屋の軒下で、母親が赤子を抱えて震えていた。
三か月待った雨が土を叩き始めると、歓声はすぐ悲鳴に変わった。
水路の脇が崩れ、濁流が畑へ流れ込む。
エリクは堰の見張りを呼び、「水を増やすだけでなく逃がす道を」と叫んだ。
「ここです! お子さんが探しています!」
母親は少年を抱きしめた。
そのすぐ横では、名前を呼んでも返事のない家族がいた。
夜明けになっても雨は止まなかった。
丘から見下ろす村は、茶色い水に沈んでいた。
守ってきた畑も、完成したばかりの水路も、どこまで残っているか分からない。
クリスが小さく尋ねた。
「麦、またなくなっちゃうの?」
エリクは答えられなかった。
昨夜、種麦の袋を道に置いてきた農民が、濁流を見つめている。
「まず、人を数えよう」
エリクはようやく言った。
夜明け、救助された人々の名前が広場で読み上げられた。
返事のない名前があるたび、誰かが川の方を見た。
クリスは泥だらけの子供に毛布を掛けた。
「麦はどうなるの」と聞かれ、答えを急がなかった。
「まず温まろう」
エリクは堤の壊れた場所を地図に記し、救助と修復を別の班に分けた。
「助かった人を確かめる。それから、残った麦を数える」
雨は恵みだったはずだ。
だが、飢えた王国では、雨さえも人の命を奪おうとしていた。
水路を掘った者たちは、今度は水を逃がすために土手を切らなければならなかった。
「ここを切れば、俺の畑が沈む!」と農夫が叫んだ。
バルトは低い場所にある家々を指した。
「切らなければ、夜のうちに家が沈む」
エリクは農夫の名を記録させた。
「畑を犠牲にしてくれと言う以上、復旧の人手と種は俺たちが手配する。今、約束を皆の前で書く」
農夫は泣きながら鍬を振り下ろした。
濁流は畑へ流れ込み、村の家々をそれた。




