第七十話 水路が完成した日、村人たちは泣きながら水を見た
工事開始から五十日。
水路の主要区間が完成した。
取水口にはバルトとエリク、上流のベルク村と下流のノルン村から選ばれた水番、そして数千人の農民が集まっていた。
乾いた風が吹くたびに、土手の細かな砂が舞った。
「開けるぞ」
バルトが木槌を持ち上げたとき、ノルン村の女が声を上げた。
「待って。下流の水門に、まだ子供がいる」
歓声を待っていた人々がざわついた。
見張りの少年が走り、やがて白い布を振る。
バルトはそれを確かめてから、堰の留め具を外させた。
水は最初、細い筋になって流れた。
百メートル、二百メートル。
掘り残した石に当たり、泥を巻き上げながら進む。
作業員は土手の弱い箇所に土嚢を積み直した。
「もっと開けろ!」
農民の一人が叫んだ。
「急に流せば崩れる」
バルトは譲らなかった。
水路を完成させることと、明日も使える水路にすることは違う。
五百メートル先で、先頭の水が突然止まった。
「漏れている!」
作業員が走る。
継ぎ目の下から泥水が噴き出していた。
昨夜まで固かった土が、水を含んで崩れ始めている。
バルトは堰を閉めるよう合図した。
見物していた農民が怒鳴った。
「ここまで来て止めるのか!」
「ここで止めなければ、下の畑ごと流される」
エリクは土手の下に立つ老婆を見つけた。
老婆の息子は工事中に倒れ、二度と家へ帰らなかった。
彼女は崩れた土を見つめたまま言った。
「息子は、ここに水が来ると信じて掘ったんだよ」
「……はい」
「だから、急いで壊さないでおくれ」
その言葉でエリクは我に返った。
人々が待っているのは、今日一度だけ流れる水ではない。
ガルムが作業員を集め、漏水した区間の底に粘土を突き固めた。
ドランは上流と下流の水番に、どの地点まで水が届いたかを別々に記録させた。
片方の村だけの証言では、また争いになる。
日が傾くころ、堰がもう一度開かれた。
今度は水が止まらなかった。
一キロ先の分水路を越え、アルト村の乾いた畑へと流れ込む。
ひび割れた土が暗い色に変わった。
老人がしゃがみ、指先で濡れた土に触れる。
「……冷たいな」
それだけ言って、老人は顔を覆った。
ようやく歓声が上がった。
だがエリクは、老婆が立つ土手の前に足を止めた。
「工事で亡くなった人の名前を、ここに残したいんです」
老婆はしばらく答えなかった。
「名前だけじゃ足りないよ。残された家族が冬を越せるようにしておくれ」
「……必ず、必要な分を調べます」
「調べるだけじゃなく、届けておくれ」
エリクは頷いた。
喜びの陰で、まだ食卓を囲めない家がある。
夕方、水番たちが集まった。
ベルク村の代表が言う。
「うちが掘った区間の方が長い。水の少ない日は先に使わせてくれ」
ノルン村の代表が即座に反発した。
「上で使い切られたら、下流の畑は枯れる」
ドランは測量板を二人の間に置いた。
「飲み水を先に確保する。畑への取水は時間で区切る。流量は双方が記録する。水が減った日は、まず実際の量を確かめてから配分を見直す」
「守らなかったら?」
クリスが尋ねた。
「翌日の取水を調整する。だが、罰を決める前に故障や漏れも調べる」
二人の代表は渋い顔で署名した。
誰も完全には満足していない。
それでも、斧ではなく同じ板を持って帰ることになった。
夜、村では小さな祝いが開かれた。
パンはまだ少なく、粥の鍋の方が大きかった。
「これで、麦は元気になる?」
クリスが尋ねた。
「全部じゃない。南部の一部だけだ。それに、これからも水路を直し続けないといけない」
「じゃあ、明日も仕事だね」
「ああ」
二人が笑ったとき、遠くの空に黒い雲が現れた。
農民たちは久しぶりの雨を喜びかけ、次第に口を閉ざした。
風が変わり、水路の水面に最初の大粒の雨が落ちた。




