第六十九話 水を奪い合うより、畑を半分捨てることを選んだ
南部農業会議は、朝から怒号に包まれていた。
「うちの村に水を回せ!」
「先に水路を掘ったのは俺たちだ!」
地図の上には、乾き始めた畑が赤い線で囲まれていた。
バルトが水量を記した板を置いた。
「いまの水で全域を潤せば、どの畑も実を結ばない恐れがある」
「では、どうしろと?」
「水源に近く、すでに穂が育ち始めている畑を優先する。ほかは、今年の収穫を諦める」
老人が立ち上がった。
「祖父の代から耕してきた土地だぞ。数字一つで捨てろと言うのか!」
エリクは頭を下げた。
「土地を捨てるんじゃありません。今年、そこに流す水を諦めるんです」
「同じことだ。収穫がなければ、冬に孫が飢える」
その言葉に、会議室は静まった。
捨てる畑を選ぶ会議で、誰も自分の畑の名を先に挙げなかった。
エリクは最も弱い土地から切り捨てる案に反対した。
土地の良し悪しだけで決めれば、貧しい家から先に食卓が消える。
エリクは配給台帳を開いた。
「水を回せない村には、収穫できた村から麦を優先して運びます。村ごとの人数と必要量をここで決め、毎週記録を公開します」
「約束だけなら領主もした!」
「なら、配給が届かなかったとき、最初に責任を問われる名前をここに書きます」
エリクは自分の名前を記した。
カールが隣に署名した。
バルトも続いた。
畑を半分諦める決断は、地図の面積を減らすだけでは済まなかった。
そこに種を蒔いた人々の願いも、いったん手放すことになる。
若い農民が地図を指した。
「この境界なら、父の畑が外れる。父には何と言えばいい?」
「一緒に説明しに行く。収穫のない家に麦が届くまで、俺も配給所へ通う」
「……逃げるなよ」
「逃げない。ただし、俺が約束しただけで済ませない。畑を休ませた家の名と、次の配給日を村の掲示板にも書く」
夕方、村人たちは畑の境界に杭を打った。
乾いた穂が風に擦れ、かすかな音を立てていた。
杭を持つ若者の手は震えていた。
老人は自分の畑の土を一握りすくい、布に包んだ。
「来年は、ここにも蒔けるんだな」
エリクは簡単に頷けなかった。
「そのために、今年の麦を守ります」
全員を救う方法ではなかった。
それでも、全員が失う方法を選ばないための決断だった。
翌朝、用水路の分岐点で、上流と下流の代表が同じ決議書に署名した。
昨日まで互いに鍬を向けていた二人が、一本の筆を順番に握った。
「この紙を破ったら、誰に言えばいい」
「まず俺に」とエリクは答えた。
「だが俺がいなくても、両村の記録係に言えるようにしておく」
三日後、休ませることになった畑の持ち主が、配給所に現れた。
「約束の麦が来ない」
帳簿には確かに発送済みとあった。
だが途中の橋が崩れ、荷車は川向こうで止まっていた。
エリクは言い訳をしかけ、口を閉じた。
「記録しただけで、届いたと思っていた。俺の間違いです」
クリスは近隣の倉を回り、三日分の豆を借りた。
バルトは水量を測り直し、飲み水を削らずに回せる畑がないか調べた。
若い父親は豆袋を受け取っても笑わなかった。
「来年、ここに戻ってくる。それまでこの土地を誰にも渡すな」
エリクは再耕作予定地の札を打ち直し、冬の配給表にも農夫の名を書き足した。
休ませた畑の分まで、食事を減らさないためだった。
農夫は札を確かめた。
「来年、ここへ戻るのは俺だ。村長が変わっても、この札は有効なのか」
「村の控えと役所の控えを二つ作ります。土地の所有権は動かさない。異議があれば双方の記録を照らし合わせられるようにします」
農夫はようやく鍬を肩に担いだ。




