第六十七話 一万人が水路を掘っても、水は流れなかった
工事開始から十日。
水路は少しずつ伸びていた。
農民たちは土を掘った。
石を運んだ。
木材で補強した。
だが、作業は過酷だった。
炎天下。
水不足。
食料不足。
そして、疲労。
倒れる者が続出した。
完成したはずの溝に水が入らない。
作業員が首をかしげる横で、老農夫が水面の高さを比べた。
「ここが上流より高い」
誰も声を出さなかった。
掘った長さだけでは、水は流れない。
エリクは失敗を隠さず、全員を集めた。
「間違えた場所から直します。責任は俺が取る」
「……水を!」
作業員が叫んだ。
だが、飲み水も十分ではなかった。
エリクは作業現場を歩いていた。
「……休憩を増やしましょう」
監督官が首を振った。
「工期が遅れます」
「倒れる人が増えれば、もっと遅れます」
監督官は黙った。
エリクは続けた。
「一日に働く時間を減らして、交代制にしてください」
掘り終えた水路の底は乾いたままだった。
人々の顔から歓声が消える。
エリクは失敗を隠さず、水位と勾配を測り直すよう頼んだ。
汗の量は、水の流れる方向を変えてくれない。
掘り終えた溝に水が来ず、子供が石を一つ投げ込んだ。
乾いた音が工事場全体に響いた。
水路の底に置いた木片は、朝になっても動かなかった。
バルトは測量の杭を一本抜き、傾きを測り直した。
作業員の一人が「昨日の分の賃金は出るのか」と尋ねる。
失敗した工事にも人は働いている。
エリクは食料の支給を止めないと約束し、掘り直しの区間を短く区切った。
完成を急ぐより、今日の作業員を明日も生かすことを選んだ。
その日から、作業は交代制になった。
さらに、日陰の休憩所が作られた。
飲み水の配給も優先された。
だが、工事は予定より遅れていた。
二十日目。
水路の一部が完成した。
バルトは試験的に水を流すことにした。
「……堰を開けろ!」
作業員たちが動いた。
川の水が、水路へ流れ込んだ。
人々は歓声を上げた。
「流れたぞ!」
「水だ!」
だが数百メートル進んだところで、水は止まった。
「……何?」
エリクは駆け寄った。
水路の底に、水が溜まっていた。
その先へ流れない。
バルトは地面を調べた。
そして、顔をしかめた。
「……勾配が足りない」
エリクは息を呑んだ。
「……つまり?」
「この区間は、地面が高すぎる」
沈黙が落ちた。
バルトは続けた。
「掘り直す必要がある」
作業員たちは言葉を失った。
二十日間。
一万人が働いた。
それでも、水は流れなかった。
エリクは水路を見つめた。
「……やり直しましょう」
カールが驚いた。
「……簡単に言うな」
エリクは頷いた。
「分かっています」
そして、静かに言った。
「ですが、ここで諦めたら、畑が枯れます」
一万人が掘った溝に水が流れなかった朝、怒号が上がった。
測量係は高低差を記した板を持ってきた。
「ここが逆勾配です」
エリクは失敗を隠さず、掘り直す区間を全員に示した。
掘り進んだ距離と、水が流れる距離は同じではない。
エリクは失敗を隠さず、測り直す人々の手を止めなかった。
水路の底を水が一滴も進まない。
工夫を重ねた農民たちは、鍬を地面に投げた。
「俺たちは何日、無駄にしたんだ」エリクは掘り直しを命じる前に、勾配を測った者を呼んだ。
間違いを一人に押しつければ、次の失敗は隠される。
彼は全員の前で自分の確認不足を認めた。
「責任は俺にある。だから、今度は測ってから掘ろう」
細い水が初めて流れたとき、工夫たちは歓声を上げかけて止まった。
下流の畑まで届く量ではない。
石を敷いた場所だけが濡れ、ほかの溝からは水が逃げていた。
エリクは「成功」と書きかけた札を裏返した。
「通った距離と、失った水の量を測ろう」
小さな成功を誇る前に、残った失敗を数える必要があった。
翌朝、バルトは水が止まった区間に細い溝を掘り、桶の水を注いだ。
水は一度だけ前へ走り、すぐ逆流した。
「ここの底が高い。しかも下流に土が溜まっている」
「二十日分を、全部壊すのか」
監督官の声が震えた。
工事に参加した農民の一人が、鍬を地面に投げた。
「俺の畑は、その間に枯れる!」
エリクは頭を下げた。
「見通しが甘かった。申し訳ありません」
バルトが首を振る。
「謝罪だけでは水は来ん。高い部分を掘り下げ、崩れやすい所には石を敷く。まず百歩だけ試す」
全区間をやり直すのではなく、失敗した地点を測り直す。
三日後、試験区間を流れた水は、初めて次の杭まで届いた。
歓声は小さかった。
誰も、畑に届くまでは喜べないと知っていた。
試験区間に水が流れた翌朝、バルトはあえて作業員を呼び戻した。
「成功ではない。夜のうちに底が崩れた」
農夫たちの顔から笑みが消えた。
「石を敷けばいいんだろう?」
「石を運ぶ人手が要る。畑を耕す者が減る」
エリクは村ごとに工事日を割り振り、収穫を控えた畑からは人を出さないことにした。
工事を急がせるほど、救うはずの麦が失われる。
その日の夕方、補強した底を細い水が通った。
バルトは歓声を制した。
掘り直した溝の底へ、職人が小石を一つ落とした。
水が来れば動くはずの石は、その場に留まった。
エリクは誰にも成功を宣言させず、次の測量値を待った。
「明日の朝まで残っていたら、次を掘る」
誰も逆らわなかった。
希望を急ぎすぎた代償を、もう知っていた。




