第六十六話 二十キロの水路を掘るため、一万人が集まった
南部大河の岸で、エリクは地図を広げた。
「ここからアルト村まで、約二十キロです」
「線を引くだけなら簡単だ」とカールが言った。
「水は命令で動かないぞ」
水路の予定線には、誰かの畑と家があった。
工事のために土地を失う者へ、完成後の豊かさだけを説いても届かない。
エリクは補償と移転先を決めるまで、その区間の杭を打たせなかった。
ユリウスが連れてきた老技師バルトは、地図より先に川面を見た。
「村の畑は、この川より高い場所もある。自然に流れる区間と、流れない区間を分けなければならん」
「では、どうすれば」
「まず測量だ。取水口、堰、土砂を落とす場所、余った水を逃がす排水路も要る。間違えれば畑を水浸しにする」
測量が始まると、地図にないものが次々現れた。
岩盤、崩れやすい斜面、今年ようやく芽を出した麦畑。
畑の持ち主の女が、杭を引き抜いた。
「ここを掘るなら、うちの麦はどうなる!」
「水路が通れば来年は助かります」と若い役人が答えた。
「今年死んだら、来年なんてないよ!」
女の声に、周りの農民も黙った。
エリクは地図の線を消した。
「迂回できるか調べます。避けられない土地は、面積と収穫見込みを記録して補償します。村の代表にも署名してもらう」
「国の約束なんて、何度も破られた」
「だから、あなたの控えも残します」
バルトは横で聞きながら、もう一本の線を引いた。
「遠回りだ。だが、勾配はこちらの方が安定する」
エリクは頷いた。
工事には数千人以上が必要だった。
エリクが一万人を募ると、農民だけでなく、元兵士、難民、石工、車大工まで集まった。
剣を鍬に持ち替えた帰還兵が、隣の農民に声をかけた。
「掘り方を教えてくれ」
「去年、お前たちの隊がうちの麦を持っていった」
男は鍬を下ろした。
「……覚えている。返せないが、今度は水を運ぶ仕事をさせてくれ」
農民は返事をしなかった。
ただ、鍬の握り方を指で示した。
三日目、工事が止まった。
水路を通す線は地図の上では細い。
だがその線の下には、誰かの畑と暮らしがあった。
工事を急ぐほど、補償の約束も急がねばならなかった。
「粥が足りません!」
配給係の声に、一万人の列がざわつく。
土を運んでいた若者が鍬を置いた。
「水路ができる前に、俺たちが倒れます」
若者の名はヨルン。
家には幼い弟が二人いた。
工事の賃金で麦を買う約束だったが、三日目になっても配給札には印がつかない。
「俺がここで粥を食えないなら、弟たちは家で何を食うんです」
配給係は帳面を開いた。
人員一万人と書かれた欄の下に、炊事用の麦は六千人分とある。
募集人数だけを先に増やしたのだ。
エリクは作業を中断した。
「今日は半数を休ませます。炊事班を増やし、麦粥が足りる人数だけを現場に出す。飲み水も運び直します。働いた日数と未払いの配給は記録し、帰宅する人にも受取札を渡します」
ヨルンは札を受け取っても鍬を持たなかった。
「その紙で弟は腹いっぱいになりますか」
「なりません。今日の分は倉庫から先に渡します。明日からは、麦が届く人数以上を呼びません」
「工期が延びる」とバルト。
「倒れる人が増えれば、もっと延びます」
バルトはしばらく黙ってから、図面を小さく折り直した。
「なら、最初の区間だけ完成させよう。全長二十キロを一度に掘る必要はない。水が本当に流れると確かめてから延ばす」
翌朝、一万人は一斉に鍬を振るわなかった。
測量する者、石を運ぶ者、畑に戻る者、炊事をする者に分かれた。
エリクは、女の麦畑を避けて打たれた新しい杭を見た。
農婦は抜き直された杭を見て、黙って鍬を下ろした。
「水が来なかったら、どうする」
「測量をやり直します。失敗した理由も、ここで説明します」
「約束を紙に書いておくれ」
杭を打つ前、測量役は農夫の家の戸口から水路予定地まで歩いてみせた。
図面の上では一本の線でも、そこには人が毎日通る道があった。
エリクは頷いた。
土地の持ち主が読めるよう、村の教師にも立ち会ってもらった。
水路はまだ一滴も畑に届いていない。
農夫は補償の控えを懐にしまい、ようやく最初の杭を打つ場所を指さした。




