第六十三話 最後の収穫まで、あと百日
春の終わり、アルト村の畑には緑の麦が広がっていた。
「お兄ちゃん、見て!」
クリスが畝の間から手を振る。
エリクは久しぶりに、麦の葉が風に揺れる音を聞いた。
百日という数字は、帳簿では一行で済んだ。
だが畑では、毎朝違う土の湿り気を確かめなければならない。
エリクは日数を数える者と、畑を見て判断する者を同じ席に座らせた。
「大きくなったな」
「今年はパンをたくさん焼ける?」
答えようとしたとき、カールが配給表を持って現れた。
「収穫まで、あと百日だ」
百日という数字に、村人たちは安堵しかけた。
だが倉庫の残量を数えれば、全員が同じ量を食べ続ける余裕はない。
エリクは村の集会所に百日分の表を貼った。
「最初の十日で食べすぎれば、九十日目に足りなくなります。病人と子供の分を先に確保して、種麦には手をつけません」
カールは配給表の余白に赤い線を引いた。
「百日のうち、最初の三十日を越えられない村がある」
クリスは畑を見つめた。
「こんなに緑なのに」
エリクは首を振る。
「緑はまだ食べられない」
三人は村ごとの残量を並べ、種麦に手をつけずに運べる分を探した。
数字の上では一日分を移すだけだったが、その一日を待つ家族がいた。
老人が声を上げた。
「俺たちが腹を減らしても、植える麦を残すのか」
「はい。来年も同じことを繰り返さないために」
「来年まで生きていなければ意味がない!」
エリクは黙った。
老人の言葉は正しかった。
「だから毎週、残量を数え直します。病人が増えたら配り方も変える。決めた表に人を合わせるんじゃなく、人が生きるために表を直します」
クリスは掌の麦粒を見つめた。
「これ、食べる麦? 植える麦?」
「今は植える麦だよ」
「お母さんなら、どうしたかな」
エリクは答えられなかった。
母は最後の食料を子供たちに譲った。
だからこそ、今度は誰か一人の犠牲に頼らず冬を越したかった。
百日という数字は、暦の上では同じ長さでも、空腹の者には果てしなく遠かった。
エリクはその一日ずつを埋める方法を探した。
その夜から、畑の見回り、水路の修理、倉庫の点検が始まった。
村ごとに不足を報告し、余裕のある場所から運ぶ仕組みも作る。
しかし南部からの使者が、乾いた土を布に包んで持ってきた。
「三週間、雨が降っていません」
収穫まで百日と聞き、クリスは指を折って数えた。
「百回寝たら麦ができるの?」
エリクは首を振った。
「雨が降って、畑が守れたらね」
子供に嘘をつかないことも、百日を生き延びる仕事だった。
布を開くと、土は指の間で粉になった。
「麦の葉が黄色くなり始めました。あと十日このままなら、低地の畑は持ちません」
カールが地図を広げる。
「水を運べる川は?」
「あります。だが畑より低い場所を流れている」
エリクは地図に印をつけた。
「まず水の高さを調べます。届く畑と届かない畑を分けて、守れる場所から守りましょう」
農夫は百日という数字を聞き、指を折って数えた。
「その前に井戸が干上がる」
エリクは収穫予定日だけでなく、畑ごとの水の残量を調べるよう頼んだ。
水が届く畑と届かない畑を同じ計画に入れれば、全部を失う。
誰の畑を優先するか。
数字がそろえば、次は人間同士の争いが待っていた。
窓の外は、雲一つない青空だった。
かつては美しいと思った空が、今は恐ろしい。
収穫まであと百日。
戦争を止めても、麦が実る日までは誰も勝者ではなかった。
収穫まで百日と書かれた板を、クリスは裏返した。
裏には、百日分の配給計画が細かく書かれていた。
「最初の十日は港の麦でしのげる。でも、雨で街道が止まったら?」
「備えを別に置く」とドランが答えた。
「その備えも、同じ街道を通るなら意味がないよ」
一同が黙った。
エリクは地図に赤い線を引いた。
街道、川、徒歩で通れる山道。
どれか一つが途切れても別の道を使えるよう、倉庫を分ける。
百日という数字は、収穫を待つ希望の数ではない。
一日ずつ失敗を許されない日数だった。
「百日あれば間に合う」と誰かが言った。
ドランは首を振った。
「百日後に刈り取れる畑と、今日から百日食べさせねばならない人間は別の数だ」
港から届く麦、地方の備蓄、各村の種麦。
三つの欄を分けた帳簿が作られた。
クリスは種麦の欄に太い線を引いた。
「ここを食べたら、百日後じゃなくて来年がなくなる」
エリクはその線を消さなかった。
クリスは食用麦の欄に残りの日数を書き、種麦の欄には蒔く日付を書いた。
どちらの線も消せなかった。




