第六十二話 港に麦が届いた日、十万人が泣いた
アルディア王国、西部港町リーヴァ。
遠い海に、帆が見えた。
一隻、二隻、三隻。
やがて水平線に商船の列が現れた。
荷下ろしを待つ人々の列の先頭に、空の小椀を握った少年がいた。
船が着いたことと、その椀が満たされることの間には、まだ倉庫と道と人手が必要だった。
港の人々は、すぐには歓声を上げなかった。
船が来るという噂は何度も流れ、そのたびに裏切られていたからだ。
先頭の船が岸壁へ寄り、荷役人が一袋を降ろした。
口紐がほどかれ、麦粒が掌にこぼれる。
「……本当に、麦だ」
年老いた女が呟いた。
隣の子供が袋に手を伸ばした瞬間、港の鐘が鳴り始めた。
歓声が広がった。
泣きながら抱き合う者もいた。
だが、エリクは荷役台の上で数を確認していた。
「到着した袋数、濡れた袋、今すぐ使える袋。分けて記録してください」
港の役人が怒鳴った。
「勅命だ! 麦はすべて王都へ送れ!」
列の後ろから漁師が叫び返した。
「ここで三日待った子供はどうなる!」
人々が押し寄せ、護衛兵が槍を構えた。
エリクは荷役台の縁に立った。
「槍を下げてください!」
兵士がためらう。
エリクは王都の使者と港の代表を呼び寄せ、帳簿を見せた。
「王都にも送ります。でも港の病人を放ってはおけません。今ここで配分を決めて、全員が見られる場所に掲示します」
「王都の命令に背くのか」
「王都に届けるためにも、港の荷役人が働けなければ困ります」
そのとき、若い荷役人が麦袋を抱えたまま倒れた。
「腹が減って、もう立てないんだ!」
監督が叫ぶ。
「荷を降ろさなければ配れない!」
「最初の袋から粥を炊いてください。作業員と重病人に先に配るんです」
「順番を変えるのか」
「倒れた人を運ぶ人まで倒れたら、船の麦は海の上に残ります」
国王アルベルト三世も岸壁に立っていた。
王は掲示板の前へ歩み寄り、港の役人に命じた。
「この配分を正式な命令とする。王都へ運ぶ分も、港に残す分も、一袋ごとに記録せよ」
役人は頭を下げた。
兵士たちは槍を下ろした。
袋が岸壁に積まれても、遠い村の鍋はまだ空だった。
エリクは歓声の向こうで、運ぶ道を待つ人々を思った。
湯気の上がる鍋が用意される。
倒れた荷役人が薄い粥を飲み、再び立ち上がったころ、港では荷車の列が動き始めた。
一台目は王都へ。
二台目は近隣の村へ。
三台目は病人の多い救護所へ。
「こんなにたくさんあるのに、全部食べちゃ駄目なの?」
港に積まれた麦袋を見て、群衆の中から泣き声が上がった。
エリクは荷揚げの列を止めなかった。
「喜ぶのは、村まで届いてからにしましょう」
荷札には、まだ行き先のない袋もあった。
麦粥を受け取った少女が母親に尋ねた。
母親は答えに詰まった。
エリクが膝をつく。
「遠くの村にも、君と同じように待っている子がいるんだ」
少女は椀を抱え、少し考えて頷いた。
日暮れ、最初の荷車が港を離れた。
昼間の歓声は消え、車輪の軋む音が続いていた。
カールがエリクの隣に立つ。
「ようやく麦が来たな」
「はい。でも、これで終わりじゃありません」
「分かっている。輸入だけでは冬を越せても、その次がない」
エリクは遠くの畑を見た。
麦を受け取った女は、袋に顔を埋めて泣いた。
港の係員が「もう大丈夫です」と言いかけると、エリクは小さく首を振った。
船は着いた。
だが川が増水すれば、山村へは届かない。
彼は荷揚げした袋数の横に、各地へ到着した袋数を書く欄を作らせた。
港の歓声と村の食卓の間には、まだ長い道があった。
「次は、収穫です」
港の灯りの下で、麦袋が一つ、また一つと荷車に積まれていった。
船が着いた喜びが、人々の食卓へ届くまでには、まだ長い道があった。
港の人々が船を見て泣くなか、クリスは荷揚げ帳に印をつけ続けた。
「百隻来たって、荷車に乗らなければ村には届かない」
喜びを水を差す言葉だと怒る者もいた。
それでも彼女は手を止めなかった。
かつて配給の列で倒れた人々の顔を忘れていなかったからだ。
港で船荷を数えたドランは、到着した袋数の横に別の欄を作った。
「荷揚げした量と、配給所へ届いた量を分けます」
商人マルセルは眉を上げた。
岸壁の老人が袋に手を伸ばした。
検査係は止めたが、怒鳴らなかった。
「傷んだ麦で腹を壊したら、明日も食べられません」老人は手を引き、配給予定の札を受け取った。
「船の仕事は港までだ」
「その通りです。だからこそ、港から先の責任者も必要なんです」
嵐で傷んだ袋は別に積まれた。
検査が終わるまで食用に回さない。
目の前に麦があるのに待たされる人々の怒りを、エリクは聞き続けた。
エリクは検査が終わる時刻を掲示させた。
待たせるなら、いつまで待つのかを伝える責任があった。




