第六十一話 麦を積んだ百隻の船が、王国へ向かった
西方海域。
百隻の商船が、アルディア王国へ向かっていた。
船には、麦が積まれていた。
遠い国々で収穫された麦。
飢饉に苦しむ王国へ売られる食料だった。
船団の総責任者は、商人マルセル。
五十代の男だった。
彼は船首に立ち、海を見つめていた。
港の船大工は、積み荷の目録を二度読み直した。
麦袋を増やせば船は重くなる。
船足が落ちれば、冬の荒天に追いつかれる。
「一隻でも沈めば、港で待つ村が一つ消える」
船長は余分な荷を降ろさせ、帆の継ぎ目を自分で確かめた。
船団は百隻でも、百隻が無事に着く保証はない。
出航の鐘が鳴る。
岸に残った者たちは、船が水平線に消えるまで誰も帰ろうとしなかった。
「……これだけの麦を運ぶのは、初めてだな」
港へ向かう百隻の船には、麦だけでなく天候と海賊の危険が積まれていた。
エリクは到着予定日を一つだけ書かせなかった。
遅れたときに何を食べるか、村ごとの備えも必要だった。
船長は積荷の重さを測り直した。
海上で一袋失うことは、港で何人かが食べられないことを意味した。
商人マルセルは積み荷の目録に赤い印をつけた。
「この船は港に着いても、荷役の人手が足りない」
船長は風向きを見た。
「海を越えるより、陸へ届ける方が難しいか」
マルセルはうなずく。
海上で袋を守る者、港で降ろす者、村へ運ぶ者。
その誰か一人が倒れれば、麦はまだ食料にならない。
彼は港への伝令を一隻先に走らせた。
副船長が頷いた。
「はい」
「港は受け入れ準備をしているか?」
「王国から連絡が来ています」
マルセルは頷いた。
「……なら、急ごう」
だが、その夜。
海が荒れ始めた。
強い風。
高い波。
そして、激しい雨。
船団は散り散りになった。
マルセルは叫んだ。
「帆を下ろせ!」
「波が高すぎます!」
「船を守れ!」
嵐は三日続いた。
船団の一部は航路を外れた。
数隻は沈没した。
そして、積み荷の一部が失われた。
四日目。
ようやく嵐が収まった。
マルセルは船団の状況を確認した。
「……何隻残った?」
副船長が答えた。
「現在、確認できるのは八十七隻です」
マルセルは目を閉じた。
「……十三隻が行方不明か」
副船長は頷いた。
「はい」
マルセルは海を見つめた。
食料を待つ人々がいる。
飢えた子供たちがいる。
そして、王国の未来がかかっている。
「……進め」
マルセルは命じた。
「一袋でも多く届けるんだ」
船団は再び進み始めた。
百隻の船が港へ向かう報告に、人々は歓声を上げた。
だが船長は潮と風の記録を見せた。
「到着日がずれれば、港の配給は足りなくなる」
エリクは港ごとに受け入れ順を決め直した。
港へ向かう船団の甲板で、船長は積荷の封印を確かめた。
「金貨で買われた麦だ。だが金貨は腹に入らん」若い水夫が言った。
「嵐を避けて港に寄れば、到着が遅れます」船長は空を見上げた。
急いで沈めれば、一粒も届かない。
彼は帆を縮めるよう命じ、全船に同じ信号を送った。
命を救う航海だからこそ、無事に着かなければならなかった。
船影が見えるまでは、港に集まった誰も安心できなかった。
約束された麦と、実際に陸へ揚がる麦は別のものだった。
港で荷を下ろす男たちは、積み荷の順番をめぐって言い争った。
先に降ろせば腐敗を防げる袋もあれば、今夜の病院に必要な袋もある。
エリクは船長から荷の状態を聞き、急ぐ理由を一つずつ書き出した。
「順番を決めた理由も掲示してください」
不公平に見える配給ほど、説明が必要だった。
二日目の夜、船倉で水が跳ねる音がした。
「船底の継ぎ目が開いています!」
水夫が膝まで水に浸かり、樽を使って汲み出していた。
積み荷を減らさなければ船が沈む。
副船長は麦袋を海へ投げるよう命じかけた。
「待て」
マルセルは濡れた目録を開いた。
袋には行き先の港と、配給を受ける村の番号が書かれていた。
捨てれば数字が減るだけではない。
そこへ届くはずの夕食が消える。
「甲板の予備材を下ろせ。水を吸った帆布も捨てる。麦は最後だ」
「それでも沈みます!」
「その時は、俺が最初に袋を投げる」
水夫たちは暗闇の中で板を打ち付けた。
指の皮が裂けても、誰も手を止めなかった。
夜明け前、水位はようやく下がった。
一人の若い水夫が、濡れた袋を抱いて泣いていた。
故郷の弟に食べさせるはずの麦だった。
マルセルは袋の口を確かめた。
まだ乾いた粒が残っている。
「数え直せ。使える分を分けて積め。港へ着くまで、失った数も隠すな」
百隻という大きな数より、一袋を守り切ることの方が難しい夜だった。
港町では、百隻の船が来るという知らせだけが先に届いた。
住民は桟橋へ押し寄せたが、港務官は顔を曇らせた。
「一度に入れるのは十隻ほどです。残りは沖で待つしかない」
「待つ間に嵐が来たら?」とカールが問う。
「積み荷を失います」
エリクは荷揚げする順番を決めた。
最初は病院と配給所向けの麦。
次に種麦。
軍の備蓄は後回しだ。
兵士の代表が抗議した。
「港を守っているのは我々です」
「分かっています。ですが、子供が今夜死ねば、港を守った意味がなくなる」
夜、沖の船に灯がともった。
数え切れない灯を見ながら、エリクは届くはずの麦が、まだ誰の口にも入っていないことを思い知った。
夜、沖合の船から救難の灯が上がった。
積み荷を守ろうとした水夫が足を挟まれ、甲板の下に取り残されたのだ。
「麦を先に降ろせ!」港の商人が叫ぶ。
「潮が変われば船が座礁する!」
マルセルは小舟を出した。
袋を三十、海へ投げなければ救助用の通路が開かない。
「三十袋あれば、何人が食えると思っている」と船主が腕をつかんだ。
「知っている。だから捨てた数を記録し、明日補う。だが今、ここにいる人間を数から消すな」
水夫は夜半に救助された。
港に着いた麦は予定より少なかった。
エリクは到着量の横に、救助のために失った三十袋を書き加えた。
翌朝、助けられた水夫の弟がその記録を読んだ。
失った三十袋の欄を見つめたあと、弟は黙って荷下ろしの列に加わった。




