第五十八話 故郷へ帰った兵士は、家族の墓しか見つけられなかった
ヴァルシア王国北部。
小さな村、エルン。
元兵士のトビアスは、三年ぶりに故郷へ戻ってきた。
背中には古い袋。
手には鍬。
剣は、国境の倉庫に置いてきた。
「……ただいま」
誰も答えなかった。
村は静まり返っていた。
家々は崩れかけていた。
畑には雑草が生い茂っていた。
トビアスは墓標の土を払い、三つの名前を読んだ。
父と母と、弟。
弟の名だけが、まだ新しい木に刻まれていた。
村に残っていた老人が、遠くから声をかけた。
「お前の母さんは最後まで井戸の水を運んでいた。隣家の子に飲ませるためにな」
トビアスは答えられなかった。
自分が剣を振るっていたころ、母は空の桶を抱えていたのだ。
「俺が送った金は?」
「金は届いた。だが、売る麦がなかった」
老人は懐から折れた木札を出した。
母が配給所で並んだ順番を示す札だった。
トビアスはそれを握りしめた。
鍬を取る理由は、英雄になるためではない。
金貨では買えなかった一椀を、次の誰かには届けるためだった。
トビアスは墓の脇で、割れた水差しを見つけた。
母が使っていたものだ。
拾おうとして手を止める。
これを直しても、母は戻らない。
村へ戻った生存者の老人が「畑を起こすなら手伝う」と言った。
トビアスは初めて泣いた。
「誰のために耕せばいい」
老人は遠くの道を指した。
「まだ帰ってくる者がいるかもしれん」
故郷の墓標に手を置いた兵士は、名前を読み上げてから黙った。
帰還した者の食事を用意する家族は、もういない。
エリクは帰郷者名簿に、帰る家のない者を記す欄を加えた。
故郷の井戸は残っていた。
だが、いつも桶を下ろしていた母の声はない。
兵士は家の跡にしゃがみ、土に埋まった木匙を拾った。
戦場で何度も死を見たはずなのに、その小さな匙だけが手から離せなかった。
「帰ってきたぞ」
答える者はいない。
彼は初めて、勝敗のない喪失を知った。
井戸は枯れていた。
トビアスは自分の家へ向かった。
小さな木造の家。
妻と二人の子供が暮らしていた場所。
だが、扉は外れていた。
中には誰もいなかった。
トビアスは墓標の前に膝をついた。
家族の名は書かれていたが、亡くなった日付は曖昧だった。
「俺が戻れば、何かできたと思っていた」隣家の老人は首を横に振った。
「お前が戦場にいても、ここにいても、麦は実らなかった」慰めにはならなかった。
それでも老人が差し出した鍬を、トビアスは受け取った。
明日の食事を作る仕事だけは、まだ残されていた。
帰る家のない兵士に「故郷へ戻れ」と命じることはできなかった。
墓の前に立つ背中を見て、エリクは帰還の意味を考え直した。
故郷の家の前で、兵士は墓標の名を何度も読んだ。
仲間が声をかけても振り向かない。
「帰れば会えると思っていた」
彼は鍬を置き、まず崩れた墓の土を直した。
畑に戻るのは、そのあとだった。
トビアスは鍬を持つ前、三つの墓の土をならした。
家族の名を呼んでも返事はない。
隣家の老人が種を一握り持ってきた。
「あんたの家の分だ」
トビアスは受け取れなかった。
「俺は兵士でした」
老人は頷いた。
「知ってる。だからこそ、今度はここで育てろ」
許されたとは思えなかった。
それでも、手のひらに種の重みが残った。
墓前で帰還兵は持ち帰った配給券を握り潰した。
家族に見せるつもりだった証だった。
「……マリア?」
妻の名前を呼んだ。
返事はなかった。
「……ルカ?」
息子の名前。
「……エルナ?」
娘の名前。
誰も答えなかった。
トビアスは家の中を探した。
寝室。
台所。
物置。
だが、何もなかった。
そのとき、村の外れに小さな墓が並んでいるのを見つけた。
木の板が立てられていた。
そこには、名前が書かれていた。
『マリア』
『ルカ』
『エルナ』
トビアスは立ち尽くした。
しばらくして、膝をついた。
「……嘘だろ」
誰も答えなかった。
「……俺、帰ってきたんだぞ」
風が吹いた。
草が揺れた。
「……麦を作ろうと思って」
トビアスは鍬を握りしめた。
「……もう戦争は終わったんだ」
涙が落ちた。
「……だから、帰ってきたのに」
その日。
トビアスは三つの墓の前で、夜まで泣き続けた。
故郷へ戻った元兵士は、家族の墓の前で立ち尽くした。
ドランは少し離れて待った。
慰めの言葉が何も見つからなかったからだ。
「俺は命令だから村を焼いた」と兵士が言った。
「家に帰れば、家族が待っていると思っていた」
ドランは首を振った。
「命令だった。だが、俺たちがしたことは消えない」
兵士は鍬を地面に置いた。
「この村の畑を直しても、許されないだろうな」
「許すかどうかは、残された人が決める」
ドランは鍬を拾い、隣の畝へ向かった。
彼らは許しを買うためではなく、今日生きている誰かが明日食べられるように土を起こした。
翌朝。
彼は畑に出た。
鍬を振り上げた。
そして、土を耕し始めた。
誰のために。
もう家族はいない。
それでも、彼は耕した。
なぜなら、どこかにまだ生きている子供がいるかもしれないからだ。
そして、その子供が来年食べる麦を作れるかもしれないからだ。
復員の列で、片脚を失った兵士が立ち止まった。
「畑に帰れと言われても、鍬を振れない」
カールはすぐに返事ができなかった。
兵を解けば戦争は終わる。
だが、傷を負った者の暮らしまで終わらせてよいはずがない。
「荷札の読み上げと倉の点検を頼めないか」
ドランが声をかけた。
男はしばらく黙り、それから尋ねた。
「……俺にも、できる仕事があるのか」
カールは初めて、帰還先のない兵士の数を名簿に書き加えた。
その夕刻、片脚を失った兵士は倉庫の入り口で立ち尽くしていた。
荷札を読めても、誰も彼に鍵を預けようとしない。
「昨日まで敵だった男だぞ」と倉番が言った。
ドランは鍵を一本差し出した。
「だから一人には任せない。私と二人で開け、二人で閉める。記録も両方の名で残す」
兵士は鍵を受け取らなかった。
「俺は、お前たちの村から麦を運び出した」
「知っている」ドランは答えた。
「返せない分まで許したとは言わない。だが、奪った数を知る者が、今度は届いた数を数えることには意味がある」
兵士はようやく鍵を握った。
翌朝、彼は昨冬に麦が届かなかった村の名を帳簿の一行目に書いた。
次の行には、そこへ運ぶ袋数を記した。




