第五十七話 十万人が畑を耕したら、食料が足りなくなった
休戦から十日。
国境の野営地では、十万人の元兵士が鍬を握っていた。
槍の隊列は揃えられても、種を蒔く間隔は揃えられない。
畝は曲がり、種は一か所に固まった。
「そのままじゃ芽が混み合う」
老農夫が膝をついて種をまき直すと、昨日まで隊長だった男が頭を下げた。
だが、農作業を覚えるより先に、食料が尽きかけていた。
「あと五日です」
カールが差し出した配給表を見て、エリクは言葉を失った。
十万人を一日一食に減らしても、備蓄は五日分。
畑から収穫が上がるのは何か月も先だ。
ハインリヒが天幕に入った。
「倒れた兵が四十人を超えた。働かせれば働かせるほど腹が減る」
鍬を握る元兵士の手には、槍でできた硬いまめがあった。
老農夫が種の間隔を教えると、男は苛立って土を蹴った。
「戦場なら一日で済む仕事だ」
老農夫は芽の出ない畝を指した。
「畑では、急いだ分だけ来月腹が減る」
男は返事をせず、曲がった畝を最初から直した。
戦争の終わりは、命令する側にも従う側にも別の忍耐を求めた。
「仕事を止めれば、来年の麦が減ります」
エリクの言葉に、老農夫が首を振った。
「倒れた者に来年の畑は耕せん。種だって足りない。今ここで全部蒔けば、ほかの村に渡す分がなくなる」
エリクは配給表を机に置いた。
「まず重労働を止めます。体力のない人を休ませて、種麦は残す」
ガルムが地図を広げた。
「十万人を一か所で食わせるから無理が出る。帰れる者は故郷へ帰そう」
「故郷にも食料はありません」
「だからこそ、帰る道中の配給と、戻った村での仕事を一緒に決めるんだ」
話し合いは夜まで続いた。
農民だった兵は出身地別に分け、職人は壊れた水車や農具の修理へ回す。
病人と負傷者は野営地に残し、護衛隊は街道を守る。
移動する隊には日数分の食料を渡し、受け入れ先へ先触れを出す。
鍬を握った兵士が増えるほど、収穫前の食卓は苦しくなる。
エリクは働く手の数と、今夜食べる口の数を同時に数えた。
「食料がない村へ一度に帰せば、村人との争いになります」
カールの指摘で、帰還は少人数ずつに改められた。
翌朝、最初の一隊が出発した。
兵士たちは剣を束ねて荷車に積み、鍬を肩に担いだ。
出発の列から、若い兵士がエリクを呼び止めた。
「村に誰もいなかったら、俺はどこへ行けばいい」
エリクはすぐには答えられなかった。
「そのときは、ここへ戻ってきてください。畑を一緒に探します」
兵士は頷いたが、笑わなかった。
十万人の軍隊は、少しずつ解体され始めた。
それは飢えの解決ではない。
飢えた十万人を、百の村と百の事情へ分ける作業だった。
そして数日後、帰還兵から最初の報告が届いた。
報告には、農具を受け取った元兵士が鍬の握り方を知らずに立ち尽くしたとあった。
隣の農夫は笑いかけて、すぐに口を閉じた。
その兵士と同じ軍服を着た者に、昨年の麦を奪われたからだ。
「教える代わりに、勝手に倉庫を開けるな」
元兵士は頷いた。
和解は握手ではなく、同じ畝を一列耕すところから始まった。
数日後、ガルムは帰還先の農夫たちから返事を受け取った。
『教えることはできる。
ただし、村の種麦には勝手に触れさせないでくれ』
報告書の余白には、元騎兵の言葉が書き添えられていた。
『昨日まで命令すれば百人が動いた。
今日は一列の畝もまっすぐにできない』
老農夫の返事もあった。
『百人を動かす必要はない。
まず、この一列を終わらせよう』
エリクは二人の名前を帰還者名簿に書き足した。
剣を置かせるだけでは、戦争は終わらない。
エリクはその条件を帰還命令書に書き加えた。
村の代表は控えを読み、受け入れられる人数を三人と記した。
十万人の帰還は、こうした小さな合意を積み重ねるほかなかった。
帰る村のない元兵士が一人、受け入れ名簿の前に残った。
「俺はどこへ行けばいい」
エリクはすぐに答えられなかった。
受け入れ先の村には、すでに食べさせる人数の限界がある。
「いま約束できるのは寝る場所と三日分の食事だけです。その間に、どこで働けるか一緒に探します」
男は不満そうに眉を寄せたが、やがて頷いた。
十万人を救うという大きな言葉より、その三日を嘘にしないことのほうが難しかった。
その束の一番下に、別の村からの短い報告があった。
『故郷の村に、生きている者なし』
エリクは紙を握りしめた。
帰る場所のない者を、次はどの村が受け入れられるだろう。
彼は新しい欄を作り、帰還先を失った者の人数を書き始めた。
戦争が終わっても、誰かの明日を決める仕事は終わらなかった。




