第五十六話 十万人の兵士に、剣を置かせた
交渉三日目、エリクはハインリヒ将軍に一枚の紙を差し出した。
「降伏文書ではありません。休戦の取り決めです」
ハインリヒは紙を読み、眉をひそめた。
「武器を集積し、互いに攻撃しない。倉庫と配給を双方で監視する。だが、なぜ貴国の弓兵も弦を外す」
「こちらだけ武装したままでは、あなたの兵は罠だと思うでしょう」
「実際、罠かもしれん」
「だから、両軍から監視役を出します。国王の署名も必要です」
カールが割って入った。
「十万の兵を、こちらの麦だけで養うことはできないぞ」
「分かっています」
エリクは配給表を広げた。
敵軍への緊急配給を増やせば、国境の村に送る麦が減る。
村人の代表も交渉の場に呼んでいた。
「俺の子供の分まで敵に食わせるのか」
代表は拳を握った。
「敵に種麦を奪われた村もあるんだぞ」
ハインリヒは何も言わなかった。
彼も、その村の名を知っていた。
「村の子供と病人の配給は先に確保します」
エリクは答えた。
「それでも足りません。だから十万の兵を一か所に留めない。故郷へ帰れる人は、受け入れ先を確かめて少しずつ帰します。残る人には農地の整備を頼みます」
「帰った村にも食料がなければ?」
「道中の分と、到着後の配給を決めてから送り出します。約束できない人数は動かしません」
カールは配給表を見直した。
「すぐに全員が畑を耕せるわけじゃない。病人もいる」
「はい。まず休ませる人を決めます」
ハインリヒは長い沈黙のあと、紙に署名した。
「これは勝利ではないな」
「はい。飢えを終わらせるための、最初の約束です」
剣を置く音が続いても、疑いはすぐには消えなかった。
エリクは武器を数えるのと同じ慎重さで、食料を配る順番を確かめた。
翌朝、両軍の兵士が武器の集積所に並んだ。
アルディア側の弓は弦を外され、ヴァルシア側の剣と槍は番号をつけて保管された。
両軍から十人ずつ選ばれた監視役が、倉庫の封印を確かめた。
若いヴァルシア兵が剣を置こうとしたとき、背後の上官が怒鳴った。
「祖国への裏切りだぞ!」
「弟が草を食っているんです」
兵士は振り返らなかった。
休戦が布告されても、すべての隊が従ったわけではなかった。
西の丘に陣取る一個連隊は、武器を渡せば処刑されると信じ、集積所へ向かう仲間に弓を向けた。
カールは少数の護衛だけを連れて丘へ登った。
「こちらも武器を置く。お前たちの代表が倉を確かめるまで、一粒も運び出さない」その言葉に、隊長は震える手で剣を地面へ突き立てた。
しかし倉庫の前では、国境の農民が抗議していた。
「俺たちの麦を奪った兵に、先に粥を出すのか」クリスが前に進み出て、病人と子供の名簿を掲げた。
「最初の鍋は、兵士にも村人にも、倒れそうな人からです。名前も量も、ここに書きます」彼女の声は小さかったが、両軍の監視役がその帳面を覗き込んだ。
十万人の剣を置かせたのは一人の英雄の演説ではない。
疑いを残したままでも守れる約束を、一つずつ作った人々だった。
「俺は弟に麦を食わせたくて来た。誰かの弟を飢えさせるためじゃない」
夕暮れ、武器集積所から二人の兵士が消えた。
「逃亡兵だ。追え」と副官が命じる。
カールは止めた。
「逃げた先を確かめろ。食料を盗みに行ったなら、配給の設計が間違っている」
見つかった二人は、軍幕の裏で粥を分け合っていた。
一人は熱を出した弟の分を隠していた。
「名簿に弟の名がないんです」
クリスは名簿に空欄を見つけた。
武器を置く約束だけでは、飢えた家族は救えない。
その夜から、兵士本人だけでなく同行する家族も数えることになった。
剣が地面に置かれた。
次の兵も、その次の兵も続いた。
列は夕方まで途切れなかった。
だが、最後の兵が武器を預けても、鍋の中の粥は増えなかった。
「明日も食べられるのか」
兵士の一人がエリクに尋ねた。
「明日の分はあります。その先は、まだ足りません」
嘘をつかなかったことに、誰も拍手しなかった。
老農夫が一本の鍬を差し出した。
元兵士が受け取ると、掌には農具を握っていた頃の古いまめが残っていた。
「畑なら、少しは分かる」
そう言って、彼は初めて小さく笑った。
十万人の兵士が剣を置いた日、戦いは止まった。
けれど十万人の空腹は、そのまま残った。
エリクは配給表を開き直し、余白に帰還先の村と必要な日数を書き始めた。
最初の村まで、まだ七日かかる。
列の向こうで、元兵士が鍬の柄を握り直した。
エリクはその手を見て、最初の帰還先へ出す荷車の数を書き足した。




