第五十五話 敵国では、子供たちが草を食べていた
交渉二日目。
ハインリヒ将軍は、卓上に小さな布袋を置いた。
「開けてみろ」
エリクが紐をほどくと、灰色の粉が現れた。
麦粉ではない。
木の皮を砕いた粉だった。
草を煮る鍋の前で、母親は子供に「もう少しで麦が来る」と言った。
約束を信じるには、鍋の底があまりに薄かった。
エリクは国境の向こうの飢えも、交渉の数字から外せなくなった。
「我が国の北部では、去年の秋から麦が実らなかった。家畜を食い尽くし、冬には木の皮を粉にして粥に混ぜた」
将軍は地図の国境線を指でなぞった。
「兵を退けば、我が国の穀倉地帯は守れない。進めば、そちらの畑を荒らす。どちらを選んでも子供が飢える」エリクは地図の線ではなく、線を越えて麦を運べる道を探した。
カールが袋の匂いを嗅いだ。
「これで腹は満たせるのか」
「満たせない。食ったという気持ちになるだけだ」
将軍は声を落とした。
「春には子供たちが草を食べた。食べられる草も、毒のある草も区別できずにな」
エリクはクリスの細い手首を思い出した。
あの日、パンを持ち帰れなかったら、妹も道端の草を口にしていただろう。
「その子供たちは、今どうしていますか」
ハインリヒは答えず、従卒を呼んだ。
若い兵士の靴は、底を革紐で縛ってあった。
「お前の娘は六つだったな」
「はい」
「手紙は?」
「三か月、届いておりません」
兵士は一度口を閉じた。
それから、許可を求めるように将軍を見た。
「村から最後に来た手紙には、娘が土を舐めていたとありました。母親が止めると泣いたそうです」
部屋が静まり返った。
「私たちは、その娘に食べさせる麦を奪いに来たんです」
従卒は震える手を握った。
「でも、この国の村にも麦がありませんでした。将軍、私は誰から奪えばよかったのでしょう」
ハインリヒは目を伏せた。
命令を出せば軍は動く。
しかし、娘の空腹を止める命令は存在しなかった。
エリクは尋ねた。
「王都は食料を分けなかったのですか」
「暴動が起きた。国王は軍を集めた。配る麦ではなく、隣国から奪う兵を集めたのだ」
「兵士たちにも、家族がいるんですね」
「家族がいるから、進軍した者も多い」
国境の向こうにも、草を噛んで眠る子供がいた。
敵という言葉でその姿を隠せば、戦争はいつまでも終わらない。
エリクは机の布袋を見た。
敵軍十万人を助ければ、味方の麦は減る。
拒めば、この兵士の娘のような子供が飢える。
どちらか一方だけを救う答えはなかった。
「麦を配るだけでは、次の冬に同じことが起きます」
敵国の子供が草を口に入れる姿を見た兵士は、自分の干しパンを半分に割った。
だが、その半分では家族を養えない。
「戦争が終わったら、何を植えればいい」
その問いに答える者は、まだいなかった。
カールが顔を上げた。
「なら、どうする」
「畑を作ります。こちらの農地だけでなく、国境の向こうでも。種と耕す人を残すんです」
ハインリヒが苦く笑った。
「十万の兵に、剣を鍬へ持ち替えろと言うのか」
「はい。すぐには食べられません。それでも、奪い続けるよりは」
従卒は灰色の粉の袋をそっと閉じた。
ハインリヒは従卒の娘の年を尋ねた。
答えを聞くと、彼は地図の上に置いた指を離した。
占領する村を一つ増やしても、娘のような子供が食べられる日が来るわけではない。
「兵を帰すなら、帰る村に種が要る」
エリクは頷いた。
二人が初めて同じ方向を見たのは、敵陣ではなく春の畑だった。
「将軍。娘が生きていたら、今度は麦の穂を見せたいです」
ハインリヒはその言葉に返事をしなかった。
ただ、卓上の地図から進軍を示す赤い駒を一つ取り除いた。
交渉の席を離れる前、ハインリヒは自軍の補給将校を呼んだ。
「帰還路に残した倉庫の備蓄を調べろ。兵の分と村の分を分け、使える量を明朝までに報告させる」
「軍の食料を民へ回すのですか」
「民を救うために軍を動かしたはずだ。民を飢えさせて帰れば、何のための戦だ」
ただし将軍は、数字を確かめるまでは一袋も約束しなかった。
故郷の子供たちを救うには、目の前の十万人が食べる分まで計算しなければならなかった。




