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飢えた王国 ~麦を奪って生き延びた俺は、誰も麦を奪わなくていい国を作る~  作者: レモンティー


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第五十三話 十万の敵軍が、何もない村に到着した

北部国境から進んだヴァルシア軍十万人は、五日目にして異変に気づいた。

村が空だった。

倉庫には麦がなく、家畜もいない。

畑は焼かれずに残っている。

家の炉には灰があり、井戸端には子供の木靴が片方落ちていた。

補給簿の数字が減るたび、ハインリヒは兵の顔を思い浮かべた。

進めば敵国の村が飢え、退けば祖国の村が飢える。

勝利の条件そのものが失われていた。

「敵はどこへ消えた」

将軍ハインリヒが尋ねた。

斥候が答える。

「住民と食料を先に避難させたようです。倉庫も空です」

「村を焼いていないのか」

「はい。畑もそのままです」

ハインリヒは地図を見た。

敵は決戦を避けながら、侵攻軍が必要とする食料だけを運び去っている。

「十万人を進めれば、十万人が食う。だが、奪う麦がない」

副官は補給簿を差し出した。

五日目、後方から来るはずの補給車が到着せず、配給は半分になった。

六日目、各隊は残った乾パンを人数で割り直した。

七日目、馬の飼料が尽き、荷車を引く馬が次々に倒れた。

八日目、歩けない兵士が街道脇に残され始めた。

若い兵士が井戸端の木靴を拾った。

「弟と同じくらいの子供の靴です」

隣の兵士が言う。

「逃げた先まで追えという命令だ」

若い兵士は靴を元の場所に戻した。

ハインリヒは、斥候が持ち帰った別の報告を読んだ。

避難民の列には、老人も幼い子供もいる。

そこを追えば麦を奪えるかもしれない。

しかし十万の兵を動かすほどの食料はない。

「追撃しても十万人を養う麦は得られない。敵の民を殺し、帰る道まで失うだけか」

「将軍、王命は食料の確保です」

「その食料がないと言っている」

幕舎の外で、兵士が空の椀を打ち鳴らし始めた。

「将軍、麦を!」

ハインリヒは剣の柄を握った。

命令を守って進めば、軍は飢える。

退けば祖国の家族が飢える。

どちらも救いではなかった。

そこへ斥候が駆け込んだ。

「敵軍、約二万人!」

「ようやく戦う気になったか」

「いえ、白旗を掲げています。先頭に若い使者が一人。後ろには麦袋を積んだ荷車が数台」

ハインリヒは眉をひそめた。

「罠かもしれん」

「護衛は離れた場所で待機しています」

空の村に残された小さな靴は、軍の地図には載らない。

ハインリヒはそれを見て、進軍した先にも生活があったことを思い知らされた。

将軍はしばらく考え、弓兵に矢を下ろさせた。

白旗を撃てば、話を聞く機会すら失う。

近づいてきた少年は、エリクと名乗った。

かつて飢えた村から逃げ、今は農地防衛隊とともに働く青年だという。

「何の話だ」

「食料の話です」

ハインリヒの視線が荷車へ動いた。

「その麦を寄越せと言えば?」

「数台分を奪っても、十万人は養えません」

将軍は答えられなかった。

エリクは続けた。

「あなたたちが欲しいのは、明日の麦だけじゃない。来年も食べられる畑でしょう」

「……何が言いたい」

「一緒に麦を作りませんか」

副官が剣に手をかけた。

ハインリヒはそれを止めた。

「お前は、敵国の軍を畑に入れると言うのか」

「武器を持ったままでは無理です。まず、どうやって戦いを止めるか話したい」

ハインリヒは空の村を振り返った。

井戸端の小さな靴が、風に吹かれて転がった。

「話を聞こう。ただし、私の兵を飢えさせる交渉なら終わりだ」

「こちらの村人も飢えています。だからこそ、数を隠さず話しましょう」

ハインリヒは補給簿を机に広げ、五日目から八日目までの数字を副官と照合した。

予定の配給と実際の配給が混じれば、兵士の空腹を見誤る。

「残りの食料は、いま何人に何日分だ」

副官は答えを出すまでに時間がかかった。

敵将は地図上の空白になった村を指でたどった。

奪える麦がないだけではない。

井戸の場所を知る住民もいない。

兵を進めるほど、水を運ぶ距離が延びていく。

将軍はその沈黙で、進軍命令がすでに兵を危険にさらしていると悟った。

二人はまだ互いを信じていなかった。

ハインリヒは地図に補給路を描き足した。

十万の兵に一日一人あたり半キロの穀物を配るだけでも、五十トンを運ばなければならない。

水や飼葉はその外だ。

「前へ進めば補給車の往復は長くなる。止まれば兵はここで食い尽くす」

副官は命令を待った。

ハインリヒは初めて、進軍の矢印ではなく撤退路の橋を調べさせた。

副官は空の村から家畜を追いかける案を出した。

「山へ逃げた住民を捕まえれば、食料の場所を吐くでしょう」

ハインリヒは地図を閉じた。

「十万人の腹を満たすために、村の子供まで捕らえるのか」

「では兵が飢えます」

「そうだ。だから進軍を止める」

将軍は命令書に署名した。

敵に負けたとは書けなかった。

だが、これ以上進めば何を奪う軍隊になるかは、書かなくても分かっていた。

それでも、二人の間に置かれたのは剣ではなく、互いの補給簿だった。

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