第五十一話 隣国の十万軍が、食料を求めて侵攻した
隣国ヴァルシア王国でも、三年続いた凶作が人々を追い詰めていた。
北部の村では、家畜を食べ尽くした家が木の皮を粉にしていた。
春になっても畑は痩せたままで、兵役を終えて帰るはずの男たちは戻らなかった。
王宮の軍議で、国王は言った。
侵攻軍の数を聞いた村人は、まず荷物ではなく種麦を抱えた。
十万人を止める戦いは、剣の数だけでは決まらない。
エリクは避難路と収穫を守る道を、別々に地図へ記した。
「アルディアへ進軍する」
将軍ハインリヒは補給表を見た。
「十万の兵に、通常配給なら五日分。半量でも十日。馬の飼葉は三日で尽きます」
「進んだ先で徴発せよ」
「昨年、我々が買い上げた国境の村には、もう住民が半分もおりません。奪う麦そのものがないのです」
国王は沈黙した。
侵攻を止めれば、王都で暴動が起きる。
侵攻すれば、兵は他国の民から最後の種麦を奪う。
「それでも、行け」
ハインリヒは敬礼した。
勝利の見込みではなく、飢えた国の命令を受け取ったのだった。
国境を越えた軍は、最初の村で空の倉庫を見つけた。
次の村では、床下に隠された種麦が押収された。
泣きながら兵の袖を引く老人に、若い兵士は目を合わせられなかった。
「今日の徴発は」
「二十袋です」
主計官の答えに、ハインリヒは地図を閉じた。
「十万人が進んで、二十袋か」
軍は進めば進むほど飢えた。
退けば故郷の飢えが待っている。
兵士たちは何のために歩いているのか、口にしなくなった。
一方、アルディア王国では、北部からの伝令が王都に駆け込んだ。
靴底は剥がれ、手には刈り取られた青い麦の穂が握られていた。
「敵が収穫前の畑に入っています」
軍務大臣は兵数を尋ねた。
エリクはその前に、補給について聞いた。
「敵は何日分の食料を持っている?」
「分かりません。ただ、村を一つ通るたび、徴発隊が増えています」
カールが地図を指した。
「北の街道を塞ぐ。収穫前の畑は、敵に使われる前に焼くしかない」
敵軍の十万人も、腹をすかせた十万人だった。
エリクはその事実を認めたうえで、村人の食料を奪わせない方法を考えねばならなかった。
「焼けば、村人が帰ってきても何も残りません」
「敵に奪われれば同じことだ」
ヴァルシアの兵士は、遠い祖国の家族へ送る麦を夢見ていた。
ハインリヒは補給簿を見て、その願いが十万人分あることに気づいた。
「奪っても足りない」
それでも進軍命令は取り消せなかった。
「同じではありません。畑が残れば、次に蒔けます」
言い争う二人の前に、避難村の代表が現れた。
「畑を守ると言うなら、逃げる先を教えてくれ。うちの老人は歩けない。牛車は軍が徴発した」
エリクは言葉を止めた。
作戦図には街道があっても、老人を乗せる荷車の数は書かれていなかった。
「まず避難の順番と輸送を決めます。畑を焼くかどうかは、そのあとです」
カールは深く息を吐いた。
「分かった。だが時間はない」
北へ向かう荷車には、武器より先に毛布が積まれた。
老人が「畑を捨てたら来年はどうする」と尋ねる。
エリクは答えを持たなかった。
「戻れるように守ります」とだけ言った。
退避先、残す種麦、井戸の位置を村ごとに記録する。
逃げることは敗北ではない。
戻って耕す人を残すための準備だった。
その夜、王都から北へ向かう荷車が集められた。
兵器ではなく、子供と病人を運ぶためだった。
十万の敵軍が求めていたのは麦だった。
だが、その進軍が最初に奪い始めたのは、麦を育てる人々の暮らしだった。
その夜、カールは作戦を一つ変更した。
北の村を守る部隊から、避難路の橋を確保する兵を分けたのだ。
「正面の守りが薄くなります」と副官が言う。
「分かっている。だが橋を失えば、村人は敵の前に取り残される」
エリクは橋を渡る荷車を数えた。
子供を乗せた車が最後に通るまで、橋のこちら側には兵が残った。
カールが作戦の成功を認めたのは、敵を退けたときではない。
避難した家族の名簿と、村に残された人の名簿が一致したときだった。




