第五十話 飢えた王国で、初めて畑が守られた
春の風が、アルト村の畑を渡った。
エリクが村へ戻ったとき、最初に聞こえたのは鍬の音だった。
畑には農民が戻り、壊れた水路を職人が直している。
道の端には農地防衛隊の見張り台が立っていた。
「お兄ちゃん!」
畑の見張りを終えた子供が、麦の穂に触れようとして手を引っ込めた。
「触ってもいいの?」エリクは頷いた。
「守るのは、誰かが怖がらずに触れられる畑だ」
クリスが走ってきた。
抱きしめると、以前より少しだけ頬に肉が戻っていた。
「見て。芽が出たんだよ」
畝には、小さな緑が並んでいた。
エリクは膝をつき、土に触れた。
冬の間、何度も奪い合われた種麦が、ようやく芽になったのだ。
「守れたんだな」
ガルムが言う。
「まだです。収穫までは」
エリクが答えると、カールも頷いた。
見張り台に、まだ子供の少年が立っていた。
父を戦争で失い、母と二人で種を蒔いたという。
「敵が来たら、僕も戦う」
「剣は持たなくていい。鐘を鳴らしてくれ。皆が逃げる時間を作る仕事だ」
少年は縄を握りしめた。
エリクは、その仕事さえ子供に頼まねばならない現実を思った。
村の集会では、今年の配給表が読み上げられた。
王国各地に百か所の配給所ができ、街道で倒れる者は以前より減っている。
だが、村の代表が手を挙げた。
「山向こうの集落には配給所がない。老人は三日歩けない」
「運ぶ荷車も足りないぞ」
「種麦を守ると言って、今日の粥を薄くするのはいつまでだ」
誰も怒鳴らなかった。
怒鳴る体力が残っていない者もいた。
エリクは帳簿を開いた。
配給所が百か所あっても、届かない村がある。
麦が届いても、粉にする水車が壊れた場所がある。
記録が正しくても、病人は列に並べない。
「配給所を増やしただけで、救えた気になっていました」
彼は村の代表たちを見た。
「歩けない人には、配達する班を作ります。水車の修理は職人に頼む。運ぶ人の食料も計算に入れます」
「その分、畑を耕す手が減る」
カールが指摘した。
「はい。だから、誰かが無理をする前に、仕事を分け直します」
クリスが言った。
「配給札の絵も、村ごとに同じにしようよ。字が読めない人でも分かるように」
芽を守るために人が集まった。
けれど芽が育つまでの食事は、まだ足りない。
エリクは畑を見守る手と鍋を支える手を同時に必要としていた。
エリクは笑った。
「頼むよ」
夕方、村では小さな春祭りが開かれた。
肉も白いパンもない。
薄い麦粥を分け合うだけだった。
それでも、笑い声があった。
「来年はパンを食べられるかな」
そのとき、街道から馬が駆け込んだ。
斥候は鞍から降りるなり、泥のついた報告書を差し出した。
「北部国境で、隣国ヴァルシアの軍勢が集結しています」
「何人だ」
カールが尋ねた。
「十万と見られます」
粥を配る手が止まった。
少年の見張り台で、鐘が風に小さく鳴った。
エリクは芽の並ぶ畑を見た。
今日守れたのは、収穫ではない。
明日を信じるための、ほんの小さな緑だった。
畑の見張りをしていた少年が、エリクに小さな紙を渡した。
雨の降った日と芽の高さを、毎日記していたのだ。
「兵士が来ても、これだけは持って逃げる」
エリクは首を振った。
「君が先に逃げるんだ」
記録はまた作れる。
畑も、時間があれば耕し直せる。
だが一度失った子供の命は戻らない。
「畑を焼かせません。村の人も、種も、守ります」
そう言いながら、彼は分かっていた。
次の戦争を止められなければ、配給所の数も、春の芽も、すべてがまた失われる。
ガルムは畑の見張りを志願した若者に槍を渡さなかった。
「最初に覚えるのは、誰を刺すかじゃない。誰を逃がすかだ」
「敵が麦を奪ったら?」
「追い返す。だが種麦の倉と子供の避難路を先に守る」
若者は槍より先に、村の地図を受け取った。
その日の夕方、畑の見張り台から鐘が鳴った。
農民たちは鎌を握り、子供を家へ押し込んだ。
近づいてきたのは敵兵ではなく、空の荷車を引く避難民だった。
「ここなら麦があると聞いた」と女が言った。
荷車には熱を出した少年が横たわっている。
畑を守る農夫が進み出た。
「配れば来年の種がなくなる。俺たちも去年、飢えた」
エリクはすぐには答えなかった。
守れた畑を前にして、門を閉ざしたくなる気持ちが分かったからだ。
クリスが種麦の倉と食用の倉を指した。
「全部は渡せない。でも今夜の粥と、次の村までの道案内はできる。明日の分は王都へ請求する」
女は泣かなかった。
ただ、少年の肩に掛けた布を直した。
畑を守るとは、誰も近づけないことではない。
女は少年を連れて家へ戻った。
翌朝、村の代表とエリクは倉庫の前で、配る麦の量をもう一度数えた。




