第五話 パン一切れの値段は、人間一人だった
南の街ベルンには、まだパン屋があった。
エリクはその看板を見た瞬間、胸が熱くなった。
村を焼かれ、道端で人を置き去りにし、奪った麦一袋のために十人が死んだ。
ここまで来れば、金を払って食べ物を買える。
そう思いたかった。
店先には黒パンが五つ。
焼きたてではない。
それでもクリスは、パンから目を離せなかった。
「一つ、いくらですか」
「銀貨三枚」
去年は銅貨二枚だったと、後ろの男が怒鳴った。
店主は「去年の麦を持ってこい」と返した。
エリクの手には銅貨が七枚。
指で数え直しても増えない。
「半分でいいんです。妹が三日、まともに食べていなくて」
店主の顔が一瞬だけ曇った。
「俺にも娘がいる。仕入れ値より安く売れば、明日はうちが食えない」
店の奥から、幼い咳が聞こえた。
エリクはそれ以上、値切れなかった。
そこへ毛皮の外套を着た商人が来て、五つすべてを買った。
台からパンが消える。
クリスの手が、エリクの袖を握った。
「お兄ちゃん。匂いだけでも、もう少し……」
商人は立ち止まった。
「欲しいなら、仕事をやろう」
エリクはすぐに頭を下げた。
「俺が働きます。荷運びでも掃除でも」
「お前じゃない。そっちの娘だ」
商人がクリスを指した。
「住み込みの奉公人にする。十個のパンを渡そう。食事は出す」
「いつ帰れますか」
エリクが聞くと、商人は少し笑った。
「借りたパンの代金と、寝床代を返し終えたらな」
「いくらになるんですか」
「働きぶり次第だ」
返済額も期限もない。
奉公という言葉で包んだ、人の売買だった。
クリスはエリクの袖から手を離した。
「……私が行けば、お兄ちゃんも食べられる?」
その声は震えていた。
勇敢だからではない。
自分が足手まといだと、ずっと思っていたのだ。
「クリス」
「私、皿洗いできるよ。お母さんに教わったから」
エリクはしゃがみ、妹と目を合わせた。
「お前は皿を洗うために生きてるんじゃない。俺の食べ物になるためでもない」
値札に書かれた数字の向こうに、名前のない命が並んでいた。
エリクは金を払える者だけが生き残る仕組みを、初めて敵として見た。
「でも、お兄ちゃんまで死んじゃう」
返す言葉がなかった。
クリスの言う通りかもしれない。
明日の食事はない。
商人がパンを一つ取り出し、目の前で割った。
白く乾いた中身が見えた。
「今なら、この半分は先にやる。決めろ」
エリクの手が勝手に伸びかけた。
そのときクリスが、小さく「お兄ちゃん」と呼んだ。
目に涙をためながら、兄の答えを待っていた。
エリクは手を引いた。
「妹は渡しません」
商人はパンを袋へ戻した。
「そうか。明日になれば、もっと安い値で差し出す家族もいる」
男は去った。
エリクは追いかけなかった。
追いかければ、何を言ってしまうか分からなかった。
夕暮れ、市場の裏で少年がパン一切れを抱えて歩いていた。
エリクより小さい。
走れば追いつく。
殴る必要さえない。
一歩踏み出したとき、少年がパンを懐にしまって呟いた。
「母ちゃん、待ってて。今日は買えたよ」
エリクは立ち止まった。
自分が奪えば、あの少年も、家で待つ母親も、今夜を越せないかもしれない。
それでも腹は減った。
正しいことを選んだからといって、体は何も許してくれなかった。
夜、クリスは壁際で眠りながら言った。
「……パン、おいしいね」
夢の中だけは、腹いっぱい食べられるらしい。
エリクは残った七枚の銅貨を掌に並べた。
金額を確かめるためではなかった。
明日、仕事を探すと決めた自分の手が、まだ震えているか確かめるためだった。
人を売らず、奪わずに生き延びる道は、まだ見つからなかった。
だが、その道を探すことまで諦めたら、今日断った意味がなくなる。




