第四十八話 麦一袋を運ぶために、兵士十人が必要だった
王都から南部へ続く街道。
そこを、百台の荷馬車が進んでいた。
積まれているのは麦袋。
合計千袋。
護衛は、農地防衛隊の兵士五百人だった。
エリクも同行していた。
「……たった千袋を運ぶのに、五百人ですか」
エリクが呟いた。
カールは頷いた。
「途中で襲われるからな」
「盗賊ですか?」
「盗賊だけじゃない」
カールは続けた。
「飢えた農民、敗残兵、難民……誰もが麦を欲しがっている」
エリクは荷馬車を見た。
千袋。
数千人をしばらく養える食料。
だが、それを運ぶだけで大勢の兵士が必要だった。
兵士にも食料が必要だ。
馬にも飼料が必要だ。
輸送するだけで、食料が消費される。
「……難しいですね」
エリクが呟いた。
カールは頷いた。
「だから、昔から軍隊は補給を重視してきた」
その日の午後。
街道の先に、人影が現れた。
数百人の難民だった。
彼らは荷馬車を見つめていた。
そして、一人が叫んだ。
「麦だ!」
群衆が動き始めた。
カールが叫んだ。
「盾を構えろ!」
兵士たちが荷馬車を囲んだ。
だが、難民たちは止まらなかった。
「食料を分けてくれ!」
護衛の若者が足を引きずりながら荷車に追いついた。
「村の弟が熱を出しているんです。帰してもらえませんか」
カールは隊列の薄くなる箇所を指した。
誰かを帰せば襲撃の危険が増す。
エリクは中継所で交代要員を募るよう提案した。
「一袋を守るために、運ぶ人の家族まで失わせたくありません」
その代わり到着は半日遅れた。
荷車の車輪が泥にはまり、兵士たちは一袋を十人がかりで押した。
麦がある場所と、食べる人のいる場所は違う。
エリクは配給量より先に道の状態を記録させた。
荷車が泥にはまると、十人の兵士が麦袋を肩に担いだ。
運ぶ者にも食事が必要だった。
荷車の車輪が轍に沈んだとき、護衛の若い兵が尋ねた。
「この一袋を運ぶために、何人が食べずに歩いているんですか」エリクは答えられなかった。
麦を届けることが正しいとしても、その道中で倒れる者がいれば、帳簿の数字だけでは償えない。
彼は次の宿場に伝令を走らせ、交代の人員と飲み水を手配した。
護衛の人数ではなく、無事に届いた袋数と、帰ってきた人の数を記録させた。
護衛兵は荷車を守るために麦を食べ、馬も飼料を食べる。
カールが計算すると、輸送した袋数だけでは成果を測れなかった。
エリクは「届けた麦」と「運ぶために使った麦」を別の欄に記すよう頼んだ。
荷車を押す兵士が倒れたとき、後ろの列は止まった。
麦を運ぶための人間が、麦を食べられずに倒れている。
エリクは輸送隊にも最低限の配給を確保し、道中で減った袋数を記録させた。
目的地へ届く量だけを考えれば、運ぶ者が先に尽きる。
輸送は腕力ではなく、途中の食事と休息を含む仕事だった。
荷車が動かない理由は一つではなかった。
馬、道、護衛、積み下ろしの人手。
エリクは袋を増やすだけでは腹を満たせないと学んだ。
最初の中継所では、麦袋が帳簿より三袋少なかった。
「盗まれたのか」
ガルムが怒鳴ると、運搬人が震えながら言った。
「道で荷車が倒れて、泥に落ちたんです」
「なぜ報告しなかった」
「盗んだと思われるのが怖くて」
エリクは泥のついた袋を調べた。
濡れた麦を乾いた袋に混ぜれば、ほかの麦まで傷む。
「損失は隠さず記録してください。罰するのは盗みであって、事故の報告ではありません」
その日から、中継所には袋の数だけでなく、濡れた麦と使えない麦の欄が増えた。
麦を守るには、減った事実から目をそらさないことも必要だった。
「子供がいるんだ!」
「少しだけでいい!」
エリクは前に出た。
「待ってください!」
群衆が立ち止まった。
エリクは叫んだ。
「この麦は、南部の農村へ運ぶものです!」
一人の男が怒鳴った。
「俺たちは今、飢えてるんだ!」
「分かっています!」
「なら、食わせろ!」
エリクは唇を噛んだ。
千袋の麦。
ここで配れば、南部へ届く量が減る。
だが、配らなければ、目の前の人々が死ぬかもしれない。
エリクはカールを見た。
「……どうすれば」
カールは静かに答えた。
「決めるのは、お前だ」
エリクは目を閉じた。
そして、決断した。
「……百袋を降ろします」
カールは驚いた。
「百袋?」
「はい」
「南部への輸送量が減るぞ」
「分かっています」
エリクは続けた。
「ですが、この人たちを見捨てることはできません」
カールはしばらく黙っていた。
そして、頷いた。
「……分かった」
百袋の麦が降ろされた。
難民たちは泣きながら受け取った。
だが、エリクは理解していた。
この方法では、王国全土を救えない。
食料を運ぶたびに、途中で配っていては目的地に届かない。
その夜。
エリクは地図を見つめていた。
「……輸送路の途中にも、配給所が必要だ」
カールが頷いた。
「そうだな」
「街道沿いに食料を置く場所を作りましょう」
そして、エリクは続けた。
「運ぶだけじゃなく、途中の人々も救える仕組みを作るんです」
ドランは荷車の前で指を折った。
「一台に五十袋を積めるとしても、橋が落ちればゼロだ。馬が倒れればゼロ。護衛が足りなければ、運んだ麦は途中で消える」彼は道の傷み、渡河地点、馬の飼葉まで帳面に書いた。
「食料は倉庫にあるだけじゃ食料にならん。食卓へ届いて、初めて食料だ」
荷車がぬかるみに沈み、兵士たちが綱を引いた。
「十人がかりで一袋なら、百袋に千人か」
ドランは首を振った。
「そう単純じゃない。同じ十人が一日に何往復できるか、道がどこで詰まるかで変わる」
彼は道を歩いて測り、橋の手前に荷を積み替える場所を設けた。
兵士の半分は道の補修へ、残りは短い区間の往復へ回した。
夕刻、運べた袋は前日より増えた。
それでも予定には届かない。
「数字が悪くても消すな」とドランは書記に言った。
「遅れた理由が分からなくなる」




