第四十五話 焼けた麦を拾うため、千人が灰の中を這った
火災の翌朝、王都の中央穀物倉庫には千人を超える人が集まっていた。
まだ熱の残る灰の中で、黒く焦げた麦粒が光っている。
「一粒でも持って帰らせてくれ!」
灰にまみれた手のひらに、黒く焦げた麦粒が数粒残った。
エリクはその粒を見て、焼け残りを配る前に安全を確かめなければならないと悟った。
飢えた者に危険な食べ物を渡すことも、救いではない。
兵士が柵を押さえた。
「近づくな! 壁が崩れる!」
その声を聞きながら、一人の老婆が柵の下をくぐった。
「孫が、昨日から何も食べていないんだよ」
老婆は灰の中に膝をつき、指で麦を探した。
一粒。
二粒。
指先が赤くなっても、やめない。
若い兵士が近づいた。
「危ない。戻ってください」
「なら、お前が孫に食べさせておくれ」
兵士は動けなくなった。
その隙に人々が柵を越えた。
焦げた袋を奪い合い、押された男が転んだ。
背後の壁が小さく崩れ、土煙が上がる。
「全員下がれ!」
カールの怒声が響いた。
エリクは群衆の前へ出た。
「拾うのを止めてください!」
「お前は食えるからそう言えるんだ!」
石が足元に落ちた。
エリクは言葉を飲み込んだ。
目の前の人々は、正しさではなく、今日の食事を求めている。
「今ここで拾えば、壁の下敷きになる人が出ます。それに、濡れて傷んだ麦は食べると病気になるかもしれません」
「じゃあ何を食えっていうんだ!」
「無事な倉庫から、今朝の配給を先に出します。焼け跡の麦は職人と管理官で選別します。配れる量は広場に書き出します」
ガルムがエリクの肩を叩いた。
「約束だけじゃ足りねえ。俺が壁を片づける。誰か、手を貸せ」
職人たちが集まった。
危険な壁を取り除き、焼け跡を区画に分ける。
カールは警備兵に命じ、配給所までの通路を確保した。
老婆はなおも麦粒を握っていた。
「これだけでも……」
エリクはしゃがみ込んだ。
「お孫さんはどこにいますか」
「東の長屋だよ。もう歩けない」
「救護係を行かせます。あなたも一緒に来てください」
「でも、麦が……」
「あなたがここで倒れたら、お孫さんを迎えに行く人がいなくなります」
老婆はようやく立ち上がった。
午後、選別が始まった。
袋の表面だけが焦げた麦と、水を吸って異臭のする麦を分ける。
職人たちは袋ごとに印をつけ、管理官が量を記録した。
灰の中で麦を探す指を見て、エリクは「まだ残っている」という言葉を口にできなかった。
残っているのは、諦めきれない人々の意志だった。
「見た目が無事でも、食べられるとは限らない」
管理官はエリクに言った。
「安全が確認できない分は配れません」
「……分かっています」
エリクは答えた。
捨てる判断が必要だと分かっていても、その袋の向こうに飢えた子供が見えた。
灰の中から拾った麦は、焦げて苦かった。
それでも人々は手を伸ばした。
エリクは炊事係に傷んだ粒を選り分けさせた。
「飢えているからといって、食べて倒れるものまで渡せない」
夕方、老婆の孫が救護所に運ばれた。
衰弱していたが、まだ息がある。
医師の指示で少しずつ水分と食事を与えられていた。
老婆はエリクの手を握った。
「拾った麦は、もういらないよ」
「どうしてですか」
「孫が、まだ生きてるから」
エリクは答えられなかった。
夜、管理官が回収量を報告した。
食用にできる麦は、失った一万二千袋のごく一部にすぎなかった。
「倉庫は守れなかった。配給を続けるには、別の麦が必要です」
カールが言った。
「火をつけた連中は、まだどこかにいる」
ユリウスが押収した帳簿を持ってきた。
「アコギ商会の傭兵への支払い記録が見つかった。倉庫襲撃の前日だ」
エリクは灰のついた手で帳簿を受け取った。
「なら、誰が麦を奪おうとしたのか、調べましょう。まだ別の倉庫に残っているかもしれない」
翌朝、地下牢でアコギへの取り調べが始まることになった。
灰をかき分ける少女の手から、カールは黒くなった麦粒をそっと取り上げた。
「それは食べるな。煙を吸った麦は危険だ」
「じゃあ、今日のご飯は?」
答えられなかった彼は、配給所へ走った。
焼けた量を数えるだけでは、焼け残った人を救えない。
その晩、倉庫の火を消した少年が手の火傷を隠していた。
「配給の列に並べなくなるから」と少年は言った。
クリスはその手を見て、負傷者が列に並ばなくても食事を受け取れる仕組みが必要だと気づいた。
炎から麦を守った者が、麦を受け取れない。
クリスは配給係の机へ向かった。
少年の名前と傷の具合を、受け取りに来られない人の欄へ書き加えるためだった。




