第四十二話 二万袋の麦を巡って、王都で内乱が始まった
バルガス侯爵の地下倉庫が封印された翌朝、王都の広場は怒号に包まれた。
「俺たちの配給を削って、貴族は二万袋も隠していたのか!」
「全部配れ!」
最初に割れたのは倉庫の扉ではなく、配給を待つ人々の信頼だった。
エリクは麦袋を運ぶ兵士に、剣を抜くより先に列の先頭へ配給予定を告げるよう頼んだ。
エリクは群衆の前に立った。
「二万袋というのは、袋の数です。食べられる量はまだ検査中です。王国軍の印がついた袋もあります。出所を調べています」
「調べている間に、子供が死ぬんだぞ!」
男が配給札を投げつけた。
エリクは避けなかった。
札の裏には、二人の子供の名が書かれていた。
王宮では国王アルベルト三世が緊急命令を出した。
「不正な備蓄は調査する。封印を守れ。ただし、検査済みで傷みやすい麦は、記録を残して緊急配給に回せ」
財務官が反対した。
「所有権が確定しておりません。補償の財源もありません」
「補償は後で審理する。今夜死ぬ者を、後で生き返らせることはできん」
だが、命令が届くより早く、侯爵の私兵八百人が穀物管理局へ向かった。
侯爵は倉庫の封印を解き、帳簿を取り戻そうとしていた。
管理局の門を守る若い兵士は、群衆の中に父親を見つけた。
父は痩せた手で配給札を握っている。
「父さん、下がってくれ!」
「お前は誰の麦を守っているんだ!」
兵士の槍がわずかに下がった。
その瞬間、私兵が門に突っ込んだ。
金属の音。
悲鳴。
逃げる群衆が折り重なる。
「門から離れろ! 子供を先に通せ!」
カールは兵を二手に分け、民衆の避難路を開いた。
エリクは倒れた老人を担ぎ上げる。
老人の手には、まだ札が握られていた。
ユリウスが駆けつけた。
「侯爵側から、封印を解けば兵を退くという申し出が来た」
「解いたら、証拠が消えます」
「解かなければ、ここで人が死ぬ」
二人の間に沈黙が落ちた。
エリクは息を整えた。
「倉庫は開けません。でも、降伏した兵をその場で殺さないと国王に約束してもらってください。裁きは後で受けさせる」
「民衆は納得しないぞ」
「僕だって、納得できません。それでも報復が始まれば、配給所まで戦場になります」
そこへ北の通りから、別の武装集団が現れた。
アコギ商会の傭兵だった。
侯爵軍と王宮軍が争う隙に、麦を奪うつもりらしい。
秩序を守るための兵が、麦を守るために剣を抜く。
だが麦を食べるはずの人々がその剣で倒れるなら、何を守ったことになるのか。
「三つ巴か!」
カールは荷車を横倒しにして進路を塞ぎ、兵を倉庫の防火壁に配置した。
「麦を守れ! 侯爵のためでも、王のためでもない!」
麦を守る兵と、麦を奪おうとする民が同じ門に押し寄せた。
カールは剣を抜く前に退避路を開けさせた。
「証拠は残せ。だが、証拠のために子供を踏ませるな」
エリクは焼け落ちる帳簿を見つめた。
夕刻、侯爵の私兵の一部が武器を置いた。
だが、降伏兵を取り囲んだ群衆から「殺せ」という声が上がった。
カールは盾を並べて押しとどめた。
管理局の一棟は焼けた。
死傷者を運ぶ列は夜まで続いた。
検査済みの麦も一部が失われ、翌日の配給車は予定より少なくなった。
王宮でユリウスは報告した。
「今夜、救護所に回す麦を増やせば、明日の一般配給は減ります」
国王は、血のついた配給札を見つめた。
「減る量を隠すな。理由も、次の搬入予定も掲示せよ」
エリクは頭を下げた。
決断は正しかったのか。
守った帳簿は、今日死んだ者を救わない。
それでも、帳簿を燃やせば、明日また同じ者が麦を隠す。
城門の外では、五万人の難民が開門を求めていた。
内乱が鎮まりかけた夜、国王は南門の責任者を呼び寄せた。
内乱の翌朝、路地に落ちた配給札を少女が拾い集めていた。
「これがないと、弟が食べられない」
エリクは札を受け取らず、少女と一緒に配給所へ歩いた。
昨日の混乱で記録も失われている。
新しい札を渡すだけでは不正が生まれる。
だが確認が終わるまで待たせれば、弟は倒れる。
彼は緊急の粥と後日の確認を分けるよう命じた。
「門を閉じたままでは、次の暴動は壁の外から始まる」
明朝、誰を先に入れるのか。
新しい命令を書く書記の手が、まだ震えていた。
貴族の私兵と民兵が睨み合う路地で、ガルムは鍛冶槌を地面に置いた。
「俺の息子は麦を奪い合う戦で死んだ。ここでも同じことをするのか」
私兵の隊長は槍を下ろさない。
「命令に背けば、家族が路頭に迷う」
「なら、家族の分も配給簿に載せろ。俺が証人になる」
隊長の背後で、兵士が一人、槍先を下げた。
次にもう一人。
ガルムは勝ち誇らなかった。
武器を下ろした兵士に、空の荷車を引く仕事を頼んだ。
「今日から、お前たちの腕で麦を運べ。届け先は、この帳簿に書いてある」




