第三十九話 国王は、十万袋の麦よりも恐ろしいものを見た
王宮の大広間で、国王アルベルト三世はエリクに尋ねた。
「種麦を五千袋、渡せと言うのだな」
「はい。南部の農地に蒔きます」
「王都の備蓄の二十分の一だぞ!」
大臣の一人が立ち上がった。
「飢えた民の目の前から、それほどの麦を持ち去るのか」
エリクは言葉を選んだ。
「今食べれば、来年の麦は生まれません。けれど、食べずに種として残すには、守る人と、収穫まで生きる食料が必要です」
国王は椅子の肘掛けを叩いた。
「飢えた者が、麦を前にして食わずにいられると?」
「分かりません。だからこそ、配給と種麦を別に管理したいのです」
「管理する者が盗んだらどうする」
「村ごとに数え、農民と兵士が一緒に帳簿をつけます。種を蒔いた畑も記録します」
大臣たちは笑った。
「農民が帳簿をつけるだと?」
「帳簿をつけられる者がいなければ、教えます」
笑い声が途切れた。
国王はエリクを見つめた。
「お前は五千の軍勢を退けたと聞く。どうやって勝った」
「食料の尽きた敵を、橋の向こうに留めました。降伏した兵には食事を与えました」
「敵にまで食わせたのか」
「敵が死んでも、麦は増えません」
国王はしばらく黙った。
「……では、なぜ種麦を欲しがる。兵を増やすためではないのだな」
「畑を耕す人を増やすためです」
そのとき、宰相が薄い報告書を差し出した。
「陛下。南門で亡くなった子供の報告です」
国王は紙を開いた。
そこには『女児一名、衰弱死』と記されていた。
「名前は」
「記録されておりません」
「兄はいたのか」
「いたようですが、所在は不明です」
国王は報告書を机に置いた。
「死者は何人だ」
宰相が数を答える。
国王は聞き終えてから、もう一度尋ねた。
「その者たちは、どの村から来た」
宰相は答えられなかった。
数字の下には、食べられなかった日の記録があった。
国王は初めて、地図の空白にも人が住んでいたことを突きつけられた。
国王は初めて、数字の横に村名と家族の有無を書き添えるよう命じた。
エリクは頭を下げた。
「陛下。五千袋をいただければ、来年の収穫を増やせます。でも、その前に城門の外の人々が死ねば、蒔く人がいなくなります」
「王都の民は、麦を奪われたと思うだろう」
「ならば、何に使うのか公表してください。配給する麦と、蒔く麦を、皆に見えるように分けてください」
「民が納得しなかったら?」
「納得してもらえるまで説明します。私も門の外へ行きます」
国王は窓辺に立った。
城壁の向こうに、五万人の難民がいる。
「私はあの群衆を恐れていた」
国王は低く言った。
「門を開ければ食料が足りなくなる。閉めれば、外で人が死ぬ。どちらを選んでも、私を恨む者がいる」
エリクは答えなかった。
「だが、お前はその者たちに、明日の畑を見せようとしている」
「はい」
「希望を持った民は、今日のパンだけでは満足しない。明日も生きる権利を求めるだろう」
国王はエリクを振り返った。
「それは、王にとって十万袋の麦より恐ろしい」
長い沈黙のあと、国王は宰相に命じた。
「種麦五千袋の配分案と、王都の配給を減らさずに済む方法を明朝までに示せ。門前の死者の名も調べろ」
許可はまだ下りていない。
それでも、エリクは初めて国王が城壁の外を見ようとしたのだと感じた。
王が差し出された報告書を伏せると、ユリウスが問うた。
「陛下、誰の名で配給を命じますか」
「私の名だ」
「失敗したとき、民が責める名も同じです」
王はしばらく黙り、封蝋を押した。
「それでいい」
国王は印の乾かない紙を見つめた。
「失敗したとき、誰に問えばいいか、民に分かるようにしておけ」
王国を変えるのは、一人の王の慈悲ではない。
麦を蒔く者と、明日を求める者の声なのだ。




