第三十五話 王都の門前で、パン一切れを巡る殺人が起きた
王都南門には、数千人の難民が押し寄せていた。
「門を開けろ!」
「子供だけでも入れてくれ!」
城壁の上には弓兵が並び、門は固く閉ざされていた。
エリクがカールとともに人垣を抜けようとしたとき、怒号が上がった。
「泥棒だ!」
痩せた少年が男に腕を掴まれていた。
少年の手には、血のにじんだ小さなパンがある。
「返せ! 俺の娘の分だ!」
男は少年を殴った。
少年は倒れたが、パンだけは離さなかった。
「妹が……三日も食べてないんだ」
少年はパンを胸に押しつけた。
エリクには、かつて自分が殺した兵士の手紙がよみがえった。
あのときと違い、今は止めるために差し出せるものがある。
だが、次の少年にも差し出せるとは限らなかった。
「俺の娘だって食べてない!」
男がもう一度拳を振り上げた。
「やめてください!」
エリクが割って入った。
周囲の人々は動かない。
止めれば自分の食べ物まで奪われるかもしれないからだ。
エリクは袋から干しパンを取り出した。
「これを代わりに受け取ってください。盗まれたパンは返してもらいます」
男は干しパンを掴んだ。
怒りに赤くなっていた目が、ふと潤んだ。
「……俺だって、殴りたかったわけじゃない」
男は娘のいる方へ駆けていった。
少年はパンを抱えて震えていた。
「妹さんはどこ?」
少年が指さした先、城壁の陰に幼い少女が横たわっていた。
エリクは膝をついた。
少女の呼吸は浅く、唇は乾いている。
「水を」
カールが水袋を渡した。
エリクは少女の唇を湿らせ、少年が無理にパンを口へ押し込もうとするのを止めた。
「今は急がないで。医者を呼ぼう」
「医者は門の中にしかいない」
カールの言葉に、エリクは少女を抱いて城門へ走った。
「この子だけでも入れてください!」
城壁の兵士が見下ろした。
パンを奪った者と奪われた者は、ほんの少し前まで同じ列に並んでいた。
エリクは誰か一人を罰しても、列の空腹は消えないと悟った。
「難民は入れられない。王命だ」
「ここで死にます!」
兵士は顔をそむけた。
エリクは少女の軽さに、かつて埋葬した小さな亡骸を思い出した。
「門を開けられないなら、医者を外へ出してください!」
「許可がない」
カールが叫んだ。
「誰の許可を取ればいい!」
返事はなかった。
少年が駆け寄り、妹の手を握った。
「ねえ、起きて。パン、持ってきたよ」
少女の指が一度だけ動いた。
エリクはその小さな動きに望みをつないだ。
しかし、次の呼吸は来なかった。
「……妹?」
少年はもう一度呼んだ。
「ねえ。食べてよ」
エリクは少女を抱いたまま、声を失った。
やがて少年は、握りしめていたパンを少女の手に載せた。
「これ、あげるから」
城壁の上の兵士は、なおも門を開けなかった。
その日の夕方、難民たちは少女の亡骸を城門の脇に葬った。
男が一人、無言で土をかけるのを手伝った。
さっき少年を殴った男だった。
エリクは王都の高い壁を見上げた。
敵から民を守るために築かれた壁が、今は民を死なせている。
パンを盗んだ少年は生き残った。
だが、妹は帰ってこなかった。
この死を、ただの騒ぎとして終わらせてはいけない。
エリクはそう決めた。
クリスは城門の脇に座り込んだ老人が握る配給札を見つけた。
札には昨日の日付があり、すでに無効と押されている。
「列に並んだのに、受け取れなかったの?」
老人は頷いた。
札のない別の老人も、列の最後尾でしゃがみ込んでいた。
配給時刻を延ばすだけでは、歩けない者には届かない。
クリスは老人の住む路地を聞き、巡回する係の欄を作った。
役人は頷いた。
「配給の時間に間に合わなかった」
「時間に遅れたら、お腹が減らなくなるの?」
役人は口を閉じた。
クリスは札を帳簿に挟んだ。
明日の評議で、配給時刻に間に合わない人のための窓口を求めるつもりだった。




