第三十四話 五万人の難民が、王都の城壁を埋め尽くした
王都アルディアまで、あと半日。
丘に立ったエリクは、城壁より先に、布の小屋と壊れた荷車の海を見た。
門へ続く道には、人々が座ったまま眠っていた。
カールが偵察報告を広げる。
「北門一万、東門二万、西門八千、南門一万五千。昨日の報告だけで五万三千だ」
「今朝も増えている」
ガルムが街道を指した。
難民を乗せた荷車が、途切れることなく続いていた。
南門の列はほとんど動かなかった。
列を離れれば配給の順番を失うと信じて、人々は死人の隣に座り続けている。
「戦場より静かだ」
ドランが呟いた。
道端で、少年が母親の袖を握っていた。
「お母さん、起きないんだ」
エリクが女の手首に触れると、すでに冷たかった。
「君の名前は?」
「ミル」
「お母さんは、いつから眠っている?」
「昨日。起きたらパンを半分こするって約束したんだ」
エリクは息を詰めた。
自分の母親が亡くなった日も、すぐには信じられなかった。
「ミル。お母さんは、もう起きない」
「うそだ」
少年は首を振った。
袖を握る指だけが強くなった。
エリクは干しパンを二つに割った。
「俺と一緒に食べよう。お母さんとの約束を、忘れないために」
ミルは長い間パンを見つめ、ほんの小さくかじった。
「……味がしない」
「うん」
「お母さんにも食べさせたかった」
エリクは何も言えなかった。
カールが救護天幕を見つけて戻ってきた。
エリクはミルに付き添い、救護係へ事情を伝えた。
係は帳面を開き、少年の名前だけを書こうとした。
城壁の下で待つ人々には、王宮の議論は聞こえない。
届くのは、門が開くかどうかという一つの結果だけだった。
「お母さんの名前も書いてくれる?」
ミルが尋ねた。
エリクは係から筆を借り、少年の言う名前を一字ずつ確かめた。
「五万人という数字の中にも、名前のある人がいるんです」
救護係はうなずき、亡くなった人の名前と遺族の居場所を記す欄を作った。
ガルムはミルの母親を弔うため、担架を手配した。
母親の握っていた布袋には、麦粒が三つだけ残っていた。
「これ、ミルに渡してくれ」
三粒では腹は満たせない。
それでも母親は、最後まで息子に残そうとしたのだ。
カールが城門を見上げた。
「この子一人を救っても、門の外には五万人以上いる」
「分かっています」
「十万袋の麦が城内にあっても、配る仕組みがなければ届かない」
エリクは門の周りを見渡した。
人が集まりすぎて、荷車の通る道さえない。
「救護所と炊事場を門から離して作りましょう。列を分け、子供と病人を先に通す。水を運ぶ道も必要です」
「門が開かなければ?」
「開けてもらいます。そのために王宮へ行くんです」
エリクはミルの母親の布袋を少年に渡し、城門へ歩き出した。
約束をするだけでは、もう誰も救えなかった。
その晩、北門の配給列で木札を持たない少女が追い返された。
列の番人は「例外を認めれば明日から全員が札をなくしたと言う」と訴えた。
クリスは少女の名前と、前日に同じ場所で見かけたという二人の証言を帳面に書いた。
「規則をなくすんじゃない。間違えたときに直せるようにするの」少女に渡された粥を見て、エリクは妹が自分の助けを待つだけの子供ではなくなったと知った。
王宮から来た役人は、木札を並べた机を見て眉をひそめた。
「五万人を城内へ入れるわけにはいかない。疫病が広がれば王都まで倒れる」
「門を閉じたままでも、城壁の外で広がります」とクリスが言った。
役人は少女を見た。
「ではどうする」
クリスは救護係が書いた名簿を開いた。
「門の外に水場を増やして、病人は別の天幕へ。配給を受ける場所と、眠る場所も離します。王都の人が怖がるなら、王都の人にも見える場所で数を記録します」
カールは難民の列を四つに分ける案を出した。
だが実際に動かそうとすると、北門の人々が「南へ回されたら順番が消える」と怒り出した。
エリクは代表を選んでもらい、配給を受ける順番を木札に刻んで渡した。
札をなくした者の扱い、子供を抱いた家族の優先、遺体の埋葬場所。
決めるべきことは際限がなかった。
「水が足りません」と救護係が告げた。
井戸の前には一時間以上の列ができ、汚れた桶で水を運んだ子供が腹を壊している。
ガルムは荷車を解体し、木材で水汲み場の柵を作った。
ドランは城内の商人に交渉して空樽を借りたが、返却の保証として自分の荷車を差し出すことになった。
「食べ物を配る前に、飲み水で死なせるわけにはいかん」その夜、城壁の外には炊事の煙ではなく、湯を沸かす煙が立った。
カールが続けた。
「警備兵は門を守るだけでなく、荷車の通路を空ける。城内の井戸をすべて開ける必要はない。まず樽を運ぶ許可が欲しい」
役人は即答しなかった。
翌朝、許可が出たのは水運び用の門を一日二度開くことだけだった。
五万人を救うには小さすぎる譲歩だったが、初めて城壁の内と外をつなぐ道ができた。
翌朝、門外の配給所で水桶が一つ倒れた。
若い衛兵が怒鳴った。
「並び直せ!」
クリスはしゃがみ、泥に濡れた木札を拾った。
札には昨日、彼女が書いた順番があった。
「並び直したら、この人は二日待つことになります」
「規則だ」
「なら、規則を直してください。昨日の記録が残っています」
衛兵は上官を見た。
上官は渋々、札を見て列の位置を戻した。
たった一人の順番だった。
だが、後ろの人々は騒がなかった。
誰かの権利が守られるのを、初めて目の前で見たからだ。
翌日の評議で、王都の商人代表が声を荒らげた。
「五万人を入れれば、城内の備蓄は何日持つのです。私たちの子供にも食事が必要だ」
クリスはすぐに反論しなかった。
王都の子供も難民の子供も、同じように空腹だった。
彼女は配給板を机に置いた。
「門を開けるか閉じるかだけでは、五万人は消えません。外で病人が増えれば、荷車も通れなくなります。まず井戸水の運搬、病人の隔離、子供への粥を別々に決めてください」
「財源は?」
ドランが答えた。
「商会の空荷の荷車を徴用するのではなく、運賃を公開して雇う。払えない分は王都の備蓄台帳に負債として記す。誰がどれだけ運んだかも公開する」
領主の役人は渋い顔で言った。
「そこまで記録すれば、不足も隠せないぞ」
「隠した不足で死ぬのは、門の外の人です」
クリスの言葉に、商人代表は視線を落とした。
議決されたのは全面開門ではなかった。
すでに認められた水運びの門に加え、翌日から病人用の天幕を設ける。
それだけだった。
だが三日後、最初の患者を受け入れた王都の医師が、門外の衛生状況を報告した。
反対していた商人も、荷車を一台差し出した。
誰かが一度に五万人を救ったわけではない。
翌朝、最初の荷車が門を出た。
配給所の前には、昨日名前を書いた人々が同じ札を握って並んでいた。




