第三十二話 王都には十万袋の麦が眠っていた
山奥の倉庫から持ち帰れたのは、麦ではなく一冊の搬出簿だった。
アルト村の集会所で、エリクは机に帳簿を開いた。
最後の行には、昨年秋の日付と『八千袋、王都中央備蓄庫へ』の文字。
隣には、補給係ヘルマンが保管していた王印付き命令書の写しがあった。
「これだけで、王都に麦が残っていると証明できるのか」
カールの問いに、ヘルマンは首を横に振った。
「搬入した証拠にはなる。今もそこにある証拠にはならん」
彼は別の紙を取り出した。
王都の倉庫で使われる受領票の控えだった。
紙の端には、搬出簿と同じ番号が打たれている。
「わしの知る限り、中央備蓄は十万袋規模だ。ただし、何袋残っているかは、今の帳簿を開かなければ分からん」
ガルムが机を叩いた。
「十万袋! それだけあれば村は救えるだろう!」
「村だけならな」
ヘルマンは地図の王都を指した。
「王都には十万人以上いる。城門の外にも難民がいる。兵営、病院、子供たち。袋の重さはまちまちで、傷んだ麦もある。種として残す分も必要だ」
エリクは紙に三つの欄を引いた。
『確認できた量』『食べられる量』『運べる量』
「十万袋という数字だけで、助かる人数を決めてはいけないんですね」
「そうだ。しかも、麦は門を通らねば腹に入らん」
ヘルマンは王都中央備蓄庫の見取り図を描いた。
「大倉庫には三つの封印がある。倉庫長、財務官、王宮警備の責任者。どれか一つ欠けても正規の搬出は止まる」
「では、三人に会えばいい」
ドランが言うと、ヘルマンは苦い顔をした。
「会えるなら苦労はない。財務官は帳簿を公開したがらん。軍は兵の食料を減らしたがらん。倉庫長は命令なしでは鍵を回せん」
十万袋という数字は、人を安心させるには大きすぎた。
エリクは実際に開けられる扉、食べられる麦、運べる荷車を別々に数えた。
クリスが机の端から尋ねた。
「お兄ちゃん。王都へ麦を取りに行くの?」
「取りに行くんじゃない。まず、本当に何があるか確かめに行く」
「それじゃ、帰ってきてもパンはないかもしれないね」
エリクは答えられなかった。
妹の指先は細い。
今夜の粥も、昨日より薄かった。
そのとき、村の代表が入ってきた。
「王都へ行くなら、俺たちの名前も持っていってくれ」
差し出された紙には、昨年の徴発後に亡くなった人々の名が並んでいた。
靴職人ハルムの名もある。
字を書けない家族の分は、隣人が代筆していた。
「王都の帳簿には、麦の数しか残っていない」
代表の声が震えた。
「何を持っていかれたかだけじゃない。誰が残されて、誰が死んだかも見せてくれ」
エリクは名簿を搬出簿の隣に重ねた。
「約束します」
カールは護衛の人数を数え始めた。
ドランは山道の安全な経路を地図に書き込む。
ヘルマンは三人の封印責任者の名を書いた。
出発前夜、エリクは二つの帳簿を布で包んだ。
一つは麦の行き先を示し、もう一つは、その麦が去ったあとに失われた命を示していた。
王都に十万袋あるという噂よりも、彼が国王に突きつけたいのは、その二冊の間にある空白だった。
十万袋という数字を聞いたとき、エリクは一瞬だけ救われた気がした。
だが、ユリウスが帳簿を開くと、話は違っていた。
「このうち一部は種麦です。軍の備蓄もある。傷んだ袋を除けば、すぐ配れる量はさらに減ります」
「では、十万袋あると言ってはいけない」
クリスの声に役人が眉をひそめた。
「数字は嘘ではない」
「でも、食べられる麦の数じゃないでしょう」
役人は口を閉ざした。
エリクは帳簿の見出しを三つに分けさせた。
保管している量、食用に回せる量、今週中に届けられる量。
三つの数字は一致しなかった。
クリスは「今週中に届けられる量」に丸をつけた。
「お兄ちゃん。待っている人に伝えるのは、この数字だよね」




