第三十一話 山奥の補給倉庫には、麦が一粒もなかった
アルト村を出て三日目の朝、山道に最初の血が落ちた。
「止まれ!」
カールの声で、五十人の護衛が足を止める。
先頭の兵士が膝をつき、靴底から細い鉄針を抜いた。
雪に隠された罠だった。
「誰かが、この道を使わせたくないらしい」
ドランは崖の上を見上げた。
風に揺れる枯れ枝の向こうで、石が転がった。
次の瞬間、矢が飛んだ。
「伏せろ!」
カールがエリクの肩を押した。
矢は背後の木に突き立つ。
護衛たちは盾を並べたが、相手の姿は見えない。
「追うな!」
カールは叫んだ。
「倉庫に着く前に死人を増やしてどうする!」
ガルムは悔しそうに斧を下ろした。
襲撃者はほどなく退いた。
残された足跡は、雪の少ない岩場へ消えていた。
エリクは負傷した兵士の足を布で縛った。
血が止まるまで、誰も先へ進めなかった。
「このまま引き返せば、村の八千人は?」
兵士が尋ねた。
「……食料を見つけるために来ました。でも、あなたの命を使い捨てにするためじゃありません」
エリクが答えると、兵士は唇を噛み、杖を受け取って立ち上がった。
昼過ぎ、崩れかけた見張り塔が姿を現した。
「王国軍の古い砦だ」
ドランが指した先に、鉄で補強された大扉があった。
鍵は錆びていたが、扉の下の雪だけが踏み固められている。
「誰かが最近ここへ来た」
カールは護衛を周囲に配置し、ガルムに扉を開けさせた。
蝶番が悲鳴を上げた。
中は暗い。
湿った木と鼠の臭いがした。
エリクは松明を掲げ、一歩踏み出した。
棚があった。
百袋も二百袋も置ける棚が、壁の奥まで続いていた。
そのすべてが空だった。
「……嘘だろ」
ガルムが棚を叩いた。
乾いた音だけが返ってきた。
カールは床に落ちた麻袋を拾った。
軍の補給印がある。
だが中には一粒の麦もなかった。
「アルト村では、今日も配給を減らしている」
エリクの声が震えた。
「ここに来れば、何とかなると思っていたのに」
奥の机には搬出記録が残っていた。
『備蓄麦 八千袋』
『最終搬出 昨年秋』
『搬出先 王都中央備蓄庫』
「全部、王都へ……」
ドランが紙を握り潰しかけ、思いとどまった。
「証拠だ。持って帰ろう」
そのとき、背後で物音がした。
「誰だ!」
カールが剣を抜く。
倉庫の裏に通じる小部屋から、痩せた老人が現れた。
古い軍服の襟だけが、かろうじて形を保っている。
空の倉庫に響く足音は、期待していた人々の沈黙よりも冷たかった。
誰が移したのかを確かめなければ、次の倉庫も空になる。
「殺すなら早くしてくれ。もう守る麦はない」
老人はかつての補給係ヘルマンだった。
砦の記録を守るため、近くの集落から時折通っているという。
「八千袋は本当に王都へ?」
「そうだ。王印のある命令だった。わしらは種麦を残せと訴えた。だが一袋も認められなかった」
空の倉庫に残っていたのは、麦の匂いではなく荷車の轍だった。
ヘルマンは古い受領印を指でなぞる。
「ここから消えたのなら、どこかには着いている」
エリクは日付を控え、次の倉庫を調べると決めた。
「道で矢を射たのは?」
「この山で食料を探す者は多い。空の倉庫を見せたくない連中もいる。だが、誰が撃ったかは知らん」
ヘルマンは机の傷をなぞった。
「搬出した翌月、麓の村で三人が飢え死にした。帳簿には載らん。帳簿に載るのは麦だけだ」
エリクは記録の余白に、村の名と死者の数を書き込んだ。
「王都へ行きます。麦がまだあるなら、取り戻したい」
「取り戻す、か」
老人は首を横に振った。
「王都にも腹をすかせた民がいる。奪い返せば、今度はそちらが死ぬ。必要なのは、誰が何を持ち、誰に届いていないかを明らかにすることだ」
エリクは空の棚を見た。
「では、そのために行きます」
ヘルマンは初めて顔を上げた。
「王都には、まだ麦がある。だが城門は閉ざされた。王宮の倉庫は、鍵よりも人の思惑で閉まっている」
エリクは帳簿を胸に抱えた。
ヘルマンは空の棚の隅から古い封蝋を拾った。
「ここから麦が消えた日付は、帳簿に残っている」
エリクは袋の数だけでなく、運んだ馬車の台数を確かめた。
数字が合わなければ、誰かが途中で麦を抜いたことになる。
空の倉庫は沈黙していたが、紙の上にはまだ足跡が残っていた。
村に持ち帰れる麦は一粒もない。
ヘルマンは帳簿の一行を指で押さえた。
搬出日の前夜、倉庫の鍵を管理していた役人だけが交代している。
「荷車の数と門の通過記録が合えば、ここで盗まれたわけではない」
「合わなかったら?」
「途中で消えた麦を探せる」
エリクは空の棚をもう一度見た。
何もないことも、確かめ方さえあれば証拠になる。
ドランは搬出簿をそのまま持ち去ろうとしたが、ヘルマンが止めた。
「一冊だけ持っていけば、こちらが書き換えたと言われる」
二人は空の棚を数え、封蝋の割れた場所と荷車の轍を写し取った。
立ち会った護衛にも署名させる。
エリクは寒さで指を震わせながら、同じ数字を二度書いた。
麦を運べない日には、せめて麦が消えた道筋を消させない。
それがこの倉庫でできる唯一の仕事だった。
エリクは搬出簿を外套の内側へしまった。
荷車には何も積めなかったが、帳簿の送り先欄には、まだ追うべき名前が残っていた。




