第三十話 五千人を救ったら、食料が足りなくなった
ローデン軍の降伏から三日後。
アルト村の配給所で、鍋の底が見えた。
エリクは帳簿を閉じられなかった。
「あと何日ですか」
「この人数では、十日もたない」
カールの声は低かった。
農地防衛隊と村人、それに降伏兵。
合わせて八千人を超える。
傷病者には粥を運ばねばならず、見張りを減らすわけにもいかない。
種麦を食べれば今夜はしのげるが、春の畑が空になる。
「敵を助けたせいで、俺たちまで死ぬのか!」
広場でガルムが叫んだ。
村人も黙っていなかった。
「うちの娘は昨日から半椀だ!」
「降伏兵には一椀やってるんだろう!」
配給係が帳簿を掲げた。
「負傷者と子供を先に配った。兵士は村人と同じ量だよ。疑うなら数えてくれ!」
エリクは前に出た。
「救うと決めたのは俺です。食料が増えないことも分かっていました」
「分かっててやったのか」
「はい」
石を投げられても仕方がないと思った。
だが、足元に落ちたのは、空になった木椀だった。
「だったら、明日の分を見つけてくれ」
声を上げたのは、戦で夫を失った女だった。
エリクは椀を拾い、頷いた。
「種麦には手をつけません。残量を毎朝公表します。働ける者は畑と水路の修理へ、病人と子供には先に配ります。それでも足りない分を探します」
「近くの村には、もうないぞ」
カールが言った。
そのとき、ドランが倉庫へ入ってきた。
「南の山に、古い王国軍の補給倉庫がある」
「麦が残っているんですか」
「分からん。戦争が始まる前には備蓄があった。だが搬出されたかもしれない」
救った人数だけ、翌朝の食事が必要になる。
エリクは喜びと不安を同じ帳簿に書き込むしかなかった。
エリクは地図を広げた。
山道を往復するだけで数日。
空振りなら、その間にも村の麦は減る。
「行くなら、少人数だ」
カールが言った。
「村の守りと畑仕事を残す。全員を連れては行けない」
「分かっています」
配給所の前で、元ローデン軍の若い兵士が声をかけてきた。
「俺たちが出ていけば、村の子供は食えるんだろう」
「道中で倒れる人が出ます」
「ここにいても迷惑だ」
エリクは答えに詰まった。
救った者を追い出すのも、村人を飢えさせるのも、どちらも選べなかった。
「今は、畑を手伝ってください。帰る道が安全になったら、希望する人には帰ってもらう。そのための食料も計算します」
兵士はしばらく黙り、頷いた。
翌朝、エリクはカール、ドラン、ガルムと護衛を連れて南の山へ向かった。
村に残る者たちは水路へ、畑へ、救護所へ散っていった。
出発前、クリスが小さな布袋を渡した。
中には食べずに残した麦粒が数粒入っていた。
「お兄ちゃん、これ、持ってって」
「お前の分だろう」
「食べるためじゃないよ。忘れないため」
エリクは袋を握った。
八千人を救うと決めた重さが、数粒の麦に宿っている気がした。
山の倉庫に麦がある保証はなかった。
それでも、確かめずに諦めることはできなかった。
クリスは配給所で子供の人数を数え直した。
昨日は百二人、今日は百十七人。
増えた十五人に渡す分を誰かから減らさなければならない。
「お兄ちゃん、助けた人が増えたことを喜びたいのに、怖い」エリクは配給板を見つめた。
「怖いままでいい。だから数えよう。足りないと分かれば、探しに行ける」
降伏した兵の名簿を前に、エリクとカールは夜明けまで計算を続けた。
「一日分の粥を五千人に出せば、近隣三村の備蓄が一日縮む」
「なら半分にするか」
「半分にすれば、弱った者から倒れる」
ドランは地図に三つの印をつけた。
「西の製粉所はまだ動く。北の村には豆がある。南の村には運べる荷車がある。麦だけで計算するな」
借り受けを頼む村の欄には、村自身の残量も書かせた。
こちらの五千人を救うために、貸した村の子供が飢えるなら、それは借用ではなく別の略奪になる。
エリクは頷いたが、使者には別の言葉を添えた。
「貸してほしいと伝えてくれ。奪うな。返せる日と量も書く」
使者が出発すると、エリクは借りた麦を返す期限の欄を空白のままにしなかった。
返せなければ、その村にも次の冬が来る。




