第二十九話 敵将が、パン一切れのために降伏した
包囲戦八日目。
石橋の向こうに白旗が現れた。
旗を掲げたローデン伯爵の副官は、橋の途中で膝をついた。
「降伏を交渉したい。兵士たちに食料を与えてほしい」
降伏した将軍の前に置かれたパンは、兵士の分を削ったものだった。
エリクはその一切れを見つめ、降伏の署名より先に負傷者への水を運ばせた。
敵を飢えさせれば、また同じ戦争が始まる。
カールは剣から手を離さなかった。
「伯爵自身の意思か」
「いいえ。まだ認めておりません」
「では、何のために来た」
副官は唇を噛んだ。
「昨夜、見張りが倒れました。今朝は負傷兵が三人、目を覚ましませんでした。伯爵の許可を待てば、明日も死にます」
エリクはカールと顔を見合わせた。
「武器を置き、畑を焼かず、村を襲わない。それが条件です」
「兵士の命を助けてもらえるなら、受け入れます」
「あなたが受け入れても、伯爵が拒めば戦いは終わりません」
副官は頷いた。
「だから、伯爵に会っていただきたい」
エリクたちは少数の護衛とともに敵陣に入った。
野営地では衰弱した兵士が地面に横たわり、煮炊きの煙さえ上がっていなかった。
天幕の前で、農地防衛隊の男がエリクの腕を掴んだ。
「あの軍に父を殺された。どうして食わせるんだ」
「許せとは言いません」
「だったら飢えさせろ」
「ここで兵を死なせれば、逃げた者は村を襲います。罪を調べて償わせるためにも、生きて武器を置かせたい」
男は納得しなかった。
エリクも、納得させられたとは思わなかった。
天幕の中でローデン伯爵は椅子に座っていた。
頬はこけ、机には空の杯しかない。
「農民の小僧が、俺を負かしたのか」
「私ではありません。伯爵の軍の食料が尽きたんです」
「……知っている」
伯爵は立とうとして、机に手をついた。
「まだ戦える兵はいる」
「います。でも、戦えば明日も畑が焼けます。伯爵の兵も死にます」
「降伏すれば、俺は敗軍の将だ」
「降伏しなければ、兵士たちはあなたの命令を守れなくなります」
伯爵は副官を見た。
降伏の言葉より、差し出されたパンの方が重かった。
敵将はそれを受け取る前に、背後に並ぶ兵士たちを振り返った。
「お前が白旗を掲げたのか」
「はい。命令違反の罰は受けます」
「……なぜだ」
降伏文書の前で、敵将は印章より先にパンを求めた。
カールは警戒したが、エリクはパンを半分だけ渡した。
「残りは、武器を置いた兵にも」
敵将は初めて自軍の列を振り返った。
「今朝、兵がパンくずを奪い合って剣を抜きました。敵に殺される前に、味方同士で殺し合います」
伯爵の手が震えた。
長い沈黙の後、腰の剣を外して机に置いた。
「降伏する。兵に食料を与えろ」
カールは条件を一つずつ読み上げ、副官が書き留めた。
武器の引き渡し、農地への不侵入、略奪の調査。
エリクは、降伏した兵への配給も書面に残すよう求めた。
署名を終えた伯爵が、小さな声で言った。
「……パンは、あるか」
エリクは携えていた黒パンを差し出した。
伯爵は一口かじった。
固いパンを飲み込むまで、ずいぶん時間がかかった。
「うまい……」
涙が落ちた。
副官は顔を背けた。
伯爵がパンを口にした瞬間、周囲の兵士は一斉に顔を上げた。
自分たちにも分けられるのか、それとも将軍だけなのか。
エリクは用意した配給表をカールに渡した。
降伏の条件は武器を置くことだけではない。
負傷者と捕虜を数え、同じ基準で食べ物を渡すことだ。
伯爵はその表に震える手で署名した。
その日、五千の軍勢は剣を置いた。
降伏の報せより先に、炊事場へ薪を運ぶ命令が届いた。
倒れた兵士のために、最初の鍋が火にかけられた。




