第二十八話 飢えた軍隊が、最後の命令を拒否した
包囲戦七日目。
ローデン伯爵の本陣には、まだ地図が広げられていた。
「明朝、石橋を総攻撃する。畑を取れば食える」
副官は命令書を受け取った。
だが、署名のために差し出された羽根ペンを握れなかった。
「戦闘可能三千とあります。しかし、この数字は槍を持つ者の数です。自分の足で橋まで歩ける者は、その半分にも届きません」
「臆病者を数に入れるな!」
「臆病ではありません。飢えです」
伯爵は副官の頬を打った。
副官は敬礼した。
命令書を持ったまま、幕舎を出た。
夜、兵営の焚火は弱かった。
鍋にあるのは水だけ。
若い兵士が隣の男の肩を揺さぶっていた。
「交代だ。起きろ」
返事はない。
軍医が男の手首に触れ、静かに首を振った。
「昨日までは歩けたんです」
若い兵士は、空の椀を両手で抱えた。
副官は全隊長を呼んだ。
「伯爵は明朝の突撃を命じた。橋を渡れば、向こうの畑は踏み荒らされる。仮に勝っても、今夜の食料はない」
一人の隊長が立ち上がった。
「命令に逆らえば処刑です」
「分かっている」
「あなた一人が処刑されれば済む話でもない」
副官は黙った。
隊長の言うとおりだった。
命令拒否の知らせが領地に届けば、兵士の家族が罰せられるかもしれない。
「名前は伏せられませんか」と別の隊長が言った。
「名を隠しても、槍を持たなかった事実は隠せない」
副官は命令書を焚火に近づけたが、燃やさなかった。
伯爵の命令が何だったかを残さなければ、後で兵士だけが罪を負わされる。
「命令書は私が預かる。家族に手を出すなと、伯爵にも書面で要求する」
兵士たちの家族も、領主の支配する村に残っている。
そのとき、先ほどの若い兵士が口を開いた。
「俺の弟は農夫です。畑を奪えば食えると言われました。でも、踏み潰した麦は誰が育て直すんですか」
「黙れ!」
隊長の叱声にも、兵士は座らなかった。
「俺は明日、橋へ行きません。仲間を埋める穴なら掘れます」
長い沈黙のあと、別の兵士が槍を横に置いた。
また一人。
副官はその人数を数えた。
百人、三百人、千人。
「拒否した隊の人数と、私が拒否を命じたことを記録する。兵一人ずつを差し出すつもりはない。処罰するなら、最初に私を裁け」
「副官殿、それでは……」
「命令を守ることと、兵を死なせることが同じになったら、私は何のために指揮官になったのか分からない」
夜明け。
突撃の太鼓は鳴らなかった。
伯爵は幕舎から飛び出し、空いた隊列を見た。
「裏切り者を捕らえろ!」
衛兵たちは動かなかった。
槍を支えに立つ者さえいた。
「処刑しろ!」
「誰が執行するのですか」
副官が尋ねた。
「全員を殺せと言うのですか。明日の戦争をする兵も、明後日の畑を耕す人間も、残らなくなります」
伯爵は口を開き、閉じた。
遠くの石橋には朝日が差していた。
攻め落とせなかった橋の向こうで、農民が畑へ向かう小さな姿が見える。
「……俺は負けたのか」
「石橋には負けていません。兵を食わせられなかったのです」
伯爵は机の上の作戦図を見た。
橋の幅と敵の人数は書かれていたが、自軍の鍋に入る麦の量はどこにも書かれていなかった。
副官は一枚の白布を差し出した。
「降伏の使者を出しましょう。負傷者に水をもらえるよう、私が交渉します」
白布を結んだ兵士は、敵陣へ向かう前に自分の水筒を確かめた。
空だった。
それでも水を求めて前進するのではなく、撃たれないよう両手を上げて歩いた。
伯爵は白布を見つめた。
それから、ゆっくりと剣を机に置いた。
炊事係が空の鍋を洗い、白布の使者が戻る方角を見ていた。
勝敗の知らせより先に、明日の食事の知らせを待っていた。




