第三話 飢えた軍隊が村を焼いた
麦を奪ってから四日後。
領主軍が村にやってきた。
兵士三百人。
騎兵五十騎。
村の人口よりも多い軍勢だった。
領主軍の指揮官、バルド将軍は村を見下ろしていた。
「食料を奪った村はここか」
「はい」
副官が答えた。
「輸送隊の兵士六名が死亡。麦二百袋が奪われました」
「二百袋……」
バルドは目を閉じた。
その麦は、国境を守る兵士たちの貴重な備蓄だった。
補給係は何日分に当たるのかを帳簿で確かめていた。
軍の標準袋は一袋五十キロ。
二百袋で一万キロになる。
千人に一日一キロずつ配れば十日分――ただし、馬の飼料も輸送途中の損失も計算に入れていない。
副官は帳面の数字を見つめ、予定どおり届いても余裕などなかったと知った。
すでに国境の砦では、一日の配給を半分に減らしている。
これ以上食料が届かなければ、兵士たちは脱走するだろう。
そして国境が崩れる。
「村長を出せ」
村長が引きずり出された。
「奪った麦を返せ」
バルドが命じた。
「……もう、ありません」
「何?」
「村人たちに分けました。子供たちが……」
「残りは?」
「ほとんど……」
バルドは村を見渡した。
痩せた農民。
骨ばった老人。
母親の背中で泣く子供。
兵士たちと変わらない。
いや、もっとひどい。
「……将軍」
副官が囁いた。
「見せしめが必要です」
バルドは黙っていた。
「ここを許せば、ほかの村も輸送隊を襲います」
それは事実だった。
すでに王国各地で、食料輸送隊への襲撃が起きている。
軍は戦場に到着する前に、食料を失っていた。
バルドは長い沈黙のあと、命じた。
「家を調べろ。麦を隠している者は捕らえろ」
兵士たちが動き出した。
村人たちは抵抗した。
悲鳴が上がった。
家々の扉が破られた。
エリクは妹を連れて、家の裏から逃げようとした。
だが、兵士に見つかった。
「止まれ!」
エリクはクリスを背中に隠した。
「……何も持っていません」
「家を調べる」
「もう何もありません!」
兵士はエリクを押しのけた。
家に入る。
そして、床下に隠していた麦袋を見つけた。
「……あったぞ!」
エリクの顔から血の気が引いた。
それは、妹のために残しておいた最後の麦だった。
「やめろ!」
エリクが飛びかかった。
兵士は剣を抜いた。
クリスが叫んだ。
「お兄ちゃん!」
その瞬間。
村の反対側から火の手が上がった。
燃える屋根から村長が戸籍帳を持ち出した。
名前が消えれば、死者がいたことまで忘れられると言った。
誰かが兵士に抵抗し、松明が藁屋根に燃え移ったのだ。
乾燥した家々に、火は一気に広がった。
「火事だ!」
「水を運べ!」
「井戸まで火が!」
村は混乱した。
エリクは妹の手を掴んだ。
「走れ!」
二人は燃える村を抜けた。
振り返ると、生まれ育った家が燃えていた。
母の墓も。
父が建てた小屋も。
冬を越すための麦も。
すべて炎の中だった。
村の外れで、ガルムが待っていた。
その背後には、生き残った村人たちがいた。
わずか四十人。
焼けた梁の下から、昨日まで使われていた木の椀が見つかった。
エリクはそれを拾い、誰の家だったかを思い出そうとした。
村を焼いた兵士にも食べさせる家族がいる。
その事実は、灰の匂いを少しも薄めなかった。
焼けた畑の端に、春に使うはずだった鍬が落ちていた。
ガルムが拾い上げる。
「兵士は今日の飯を奪って帰る。俺たちは来年の飯まで失うんだ」
エリクは鍬の柄についた土を払った。
奪われたのは家だけではなかった。
焼け跡に戻った老人が、炭になった戸口を掘り返していた。
「孫の靴があるはずだ」と繰り返す。
バルドは馬を降りたが、謝罪の言葉を口にできなかった。
彼が必要と考えた見せしめは、国境の兵を一人も養わず、春に麦を作る家を減らしただけだった。
副官に死者と焼失した家の数を記録させると、老人は顔を上げた。
「数えるだけなら、火をつける前にやってくれ」
焼け跡に残るのは、敵か味方かの区別のない灰だった。
エリクは避難した人々の顔を一人ずつ見て、次に守るべきものを数え直した。
エリクは尋ねた。
「……みんなは?」
ガルムは答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「ここにはもう住めない」
「どこへ行くんだ?」
「南だ」
「南?」
「隣の領地には、まだ麦があるらしい」
エリクはガルムを見た。
「……また奪うのか?」
ガルムはしばらく黙っていた。
そして答えた。
「奪わなければ、死ぬ」
その言葉を聞いた瞬間、エリクは理解した。
これは、もう一つの村だけの問題ではない。
王国中の村が、同じことを始めている。
食料がなくなった村は、食料のある村を襲う。
襲われた村は、さらに別の村を襲う。
そして最後には、領主同士が軍隊を動かす。
誰も戦争など望んでいない。
ただ、食べたいだけなのだ。
クリスがエリクの手を握った。
「お兄ちゃん……」
「どうした?」
「また、ご飯なくなっちゃったね」
エリクは答えられなかった。
遠くで村が燃えていた。
その炎を見つめながら、エリクは思った。
人間は、腹が減っただけで戦争を始める。
そして、戦争が始まれば畑が焼かれる。
畑が焼かれれば、さらに食料がなくなる。
食料がなくなれば、もっと大きな戦争が起きる。
終わりがない。
その夜。
王国南部では、三つの領主軍が穀倉地帯を巡って衝突した。
西部では、飢えた農民二千人が城門を破った。
北部では、食料を失った国境軍が砦を放棄した。
そして王都では、国王が最後の穀物備蓄を開くかどうかで、大臣たちが争っていた。
誰も知らなかった。
この飢饉が、やがて王国人口の三分の一を奪う大戦乱へと発展することを。
のちに、この一連の争いは一つの名で記録される。
『飢餓戦争』
領土のためでも、宗教のためでも、王位のためでもない。
ただ、一切れのパンを手に入れるために始まった戦争だった。




