第二話 麦一袋のために人を殺した
翌朝。
村の広場に、男たちが集まっていた。
鍬。
斧。
錆びた短剣。
農具を持った二十人ほどの村人たちだった。
その中心にいたのは、鍛冶屋のガルムだった。
「領主の食料輸送隊が、明日の朝、北の街道を通る」
ガルムは低い声で言った。
「荷馬車は四台。護衛は十人ほどだ」
村人の一人が尋ねた。
「……何をする気だ?」
ガルムは答えた。
「奪う」
沈黙が落ちた。
「相手は兵士だぞ」
「知ってる」
「捕まれば処刑される!」
「何もしなければ飢え死にだ!」
ガルムが怒鳴った。
「俺の息子は昨日死んだ!」
誰も言葉を返せなかった。
「まだ五歳だった」
ガルムの声が震えた。
「最後に食べたいと言ったのは、温かい麦粥だった」
男は拳を握りしめた。
「俺は何もしてやれなかった」
エリクは黙って聞いていた。
ガルムが続けた。
「領主の倉庫には麦がある。兵士たちが食う麦だ。俺たちの村から取り上げた麦だ!」
エリクは短剣の柄を握った。
母の墓を掘ったときに裂けた指が、まだ痛んだ。
「……やる」
エリクが言った。
全員が振り向いた。
「俺も行く」
「お前、まだ十七だろう」
「妹がいる」
エリクは答えた。
「妹を死なせたくない」
ガルムはしばらくエリクを見つめた。
そして、頷いた。
「……分かった」
翌朝。
北の街道。
村人たちは林の中に隠れていた。
しばらくすると、馬車の音が聞こえてきた。
四台の荷馬車。
荷台には、麻袋が山積みになっていた。
麦だ。
エリクの喉が鳴った。
あれだけあれば、妹に温かい粥を食べさせられる。
何日も。
何週間も。
そのとき、ガルムが手を上げた。
「今だ!」
木を倒し、街道を塞ぐ。
馬が驚いて立ち止まった。
「敵襲!」
兵士が叫んだ。
村人たちが飛び出した。
戦いと呼べるものではなかった。
訓練された兵士と、飢えた農民。
最初の一分で、村人が三人倒れた。
だが、農民たちは逃げなかった。
逃げれば、家族が死ぬからだ。
「麦をよこせ!」
「子供が飢えてるんだ!」
「俺たちの麦だ!」
叫び声が重なった。
エリクは短剣を握っていた。
目の前に兵士が現れた。
若い兵士だった。
おそらく、エリクと大して年齢は変わらない。
「武器を捨てろ!」
兵士が叫んだ。
エリクは動かなかった。
「捨てろと言ってる!」
兵士が剣を振り上げた。
短剣を握る指が汗で滑った。
兵士の顔にも恐怖があった。
エリクは一瞬、互いに武器を下ろせないかと思った。
だが、剣はもう振り下ろされようとしていた。
エリクは反射的に短剣を突き出した。
刃が兵士の腹に入った。
驚くほど簡単だった。
「……あ」
兵士が小さく声を漏らした。
剣が地面に落ちた。
兵士はエリクの肩を掴んだ。
「……母さん」
それが最後の言葉だった。
兵士は崩れ落ちた。
エリクは動けなかった。
自分が人を殺した。
麦のために。
妹に食べさせるために。
それでも、人を殺した。
「エリク!」
ガルムの声が聞こえた。
「何をしてる! 麦を運べ!」
エリクは我に返った。
戦いは終わっていた。
兵士たちは逃げ、街道には死体が残されていた。
村人たちは狂ったように麦袋を運んでいた。
「助かった!」
「これで冬を越せる!」
「子供たちに食わせられるぞ!」
誰かが泣きながら笑っていた。
エリクは倒れた兵士を見た。
その懐から、小さな布袋がこぼれていた。
中には、干からびたパンが半分。
そして手紙が一通。
エリクは手紙を開いた。
『お兄ちゃんへ。
お母さんの具合が悪くなりました。
村には食べるものがありません。
少しでいいから、パンを持って帰ってきてください。
妹のエマより』
エリクの手が震えた。
兵士にも妹がいた。
手紙の末尾には、幼い文字で「兄さんが帰ったら三人で食べよう」と書き足されていた。
自分と同じだった。
ただ、食料を持ち帰りたかっただけなのだ。
エリクはその場に膝をついた。
吐こうとした。
だが、胃の中には何もなかった。
涙も出なかった。
遠くでガルムが叫んでいた。
「急げ! 領主軍が来る前に逃げるぞ!」
エリクは立ち上がった。
兵士の目を閉じてやった。
手紙を折り直して懐へ戻す。
奪った麦の重さは、袋の重さだけでは測れなかった。
そして、麦袋を担いだ。
重かった。
だが、家まで運ばなければならなかった。
妹が待っている。
その日の夕方。
エリクは久しぶりに麦粥を作った。
鍋の中で麦が煮える匂いがした。
クリスが目を輝かせた。
「お兄ちゃん! 本当にご飯だ!」
「ああ」
「すごい! どこで手に入れたの?」
エリクは答えられなかった。
クリスは夢中で食べた。
「おいしい……!」
涙を流しながら食べていた。
「お兄ちゃんも食べて!」
エリクは木匙を受け取った。
一口食べた。
温かかった。
久しぶりの食事だった。
だが、味がしなかった。
頭の中には、あの兵士の最後の言葉が残っていた。
『……母さん』
その夜、エリクは眠れなかった。
村には麦が届いた。
だが、麦を奪われた領主の兵士たちは、今度は何を食べるのだろう。
そして、あの兵士の妹は。
エリクは暗闇の中で呟いた。
「……俺たちは、何をしてるんだ」
明日、クリスにもう一杯の粥を食べさせたい。
同じ明日を願った兵士を、自分は殺した。
その二つは、どちらも消えなかった。
エリクは眠るクリスの手を握った。
あの兵士の妹も、今夜、同じように兄を待っているのだろうか。




