第一話 最後のパン
母が死んだのは、雪が降る三日前だった。
病気ではない。
怪我でもない。
ただ、食べるものがなかった。
「……母さん?」
少年エリクは、母の肩を揺すった。
返事はなかった。
母の手は冷たかった。
だが、エリクは泣かなかった。
泣く力すら残っていなかった。
十二歳の妹、クリスが母の隣に座っていた。
「お兄ちゃん……お母さん、起きないの?」
「……寝てるだけだ」
「昨日もそう言ったよ」
エリクは答えられなかった。
家の中には、もう何もなかった。
麦もない。
豆もない。
干し肉もない。
冬に備えて保存していた野菜は、二か月前に食べ尽くした。
先週は、家の裏に生えていた雑草を煮て食べた。
昨日は、何も食べていない。
「お兄ちゃん……お腹すいた」
クリスが小さく呟いた。
エリクは妹の顔を見た。
頬はこけ、唇は乾き、目だけが異様に大きく見えた。
「……待ってろ」
母の外套には、まだかすかに薪の匂いが残っていた。
去年の冬、母はその外套を妹に掛け、「春になれば畑が緑になる」と笑った。
エリクは襟を握りしめた。
母が息を引き取る前、布に包んだ麦の種を一粒だけ渡していた。
「食べないで。春のために残しておきなさい」
たった一粒で何が変わるのか、エリクには分からなかった。
それでも母の言葉を捨てられず、木箱の底にしまった。
春が来るまで生きていられるのか。
その答えを、誰も持っていなかった。
エリクは立ち上がった。
「何か探してくる」
「本当?」
「ああ」
「パン?」
「……ああ。パンだ」
嘘だった。
村には、もうパンなど残っていない。
それでも、そう言うしかなかった。
エリクは母の古い外套を羽織り、家を出た。
村は静かだった。
いつもなら聞こえる鶏の鳴き声もない。
鶏はすべて食べられた。
牛も、羊も、馬も。
最後に残った村長の馬は、先月、村人たちが殺して分け合った。
それでも足りなかった。
道端に老人が座っていた。
エリクは声をかけなかった。
三日前から、同じ場所に座っている。
もう動かないことを知っていたからだ。
村の井戸の前に、人が集まっていた。
「何かあったのか?」
エリクが尋ねると、村人の一人が振り向いた。
「領主様の使いが来た」
「食料か?」
「……税だ」
エリクは耳を疑った。
「税?」
「ああ。冬の麦税を納めろと」
「麦なんて、もうないだろ!」
村人は力なく笑った。
「そう言ったさ」
「それで?」
「来週までに納めなければ、家畜と財産を差し押さえるそうだ」
「家畜なんて一頭も残ってない!」
「だから、家を取るんだろう」
誰も笑わなかった。
そのとき、村の入口から馬の足音が聞こえた。
武装した兵士が五人。
先頭には、領主の紋章をつけた徴税官がいた。
「村長はどこだ!」
徴税官が叫んだ。
村長が震えながら前に出た。
「こちらに……」
「麦税の納入状況は?」
「申し訳ありません。今年は凶作で……」
「凶作?」
徴税官は鼻で笑った。
「それは王国全土で同じことだ」
「ですが、村人はもう……」
「領主様の兵にも食料が必要なのだ!」
徴税官は怒鳴った。
「兵が飢えれば、隣国の軍が攻めてくる! そのとき誰がお前たちを守る!」
村長は黙った。
徴税官の言葉は間違っていなかった。
だが、正しくもなかった。
兵士を生かすために農民が死ぬ。
農民が死ねば、来年の麦を作る者がいなくなる。
それでも、今日の食料を集めなければ兵士が死ぬ。
誰もが、明日を犠牲にして今日を生き延びようとしていた。
「家を調べろ!」
徴税官が命じた。
兵士たちが村の家々へ散っていく。
エリクは嫌な予感がした。
自分の家には、妹がいる。
そして、死んだ母がいる。
エリクは走った。
だが、間に合わなかった。
家の前には兵士が二人立っていた。
中から妹の声が聞こえた。
「やめて! それはお母さんの!」
エリクは飛び込んだ。
兵士が母の寝台を運び出そうとしていた。
「何をしてる!」
「徴税だ」
「母さんの寝台だぞ!」
「木材として使える」
「母さんが寝てるんだ!」
兵士は寝台の上を見た。
そして顔をしかめた。
「……死んでるじゃないか」
エリクは兵士に飛びかかった。
次の瞬間、腹を蹴られた。
床に倒れ、息ができなくなった。
「お兄ちゃん!」
クリスが叫んだ。
兵士はエリクを見下ろした。
「俺たちだって三日もまともに食ってないんだ」
その声には、怒りよりも疲労があった。
「命令なんだよ」
兵士たちは寝台を持っていった。
母の亡骸だけが床に残された。
クリスは泣いていた。
エリクは立ち上がれなかった。
その夜。
エリクは母を家の裏に埋めた。
土は凍り始めていた。
指の皮が破れ、血がにじんだ。
墓標にする木もなかった。
エリクは小さな石を置いた。
「……母さん」
何も言えなかった。
家に戻ると、クリスが毛布にくるまっていた。
「お兄ちゃん……」
「どうした?」
「明日は、食べられる?」
エリクは妹の隣に座った。
そして、答えた。
「……食べられる」
また嘘をついた。
だが、その嘘を本当の約束に変えたいと思った。
母の墓に置いた石の冷たさを思い出した。
今度は、妹まで失うわけにはいかなかった。
もう、待たない。
誰かが食料を恵んでくれるのを待っていたら、妹も死ぬ。
だったら――奪うしかない。




