第二十三話 五千の軍勢が、最後の農村を包囲した
ローデン伯爵軍、五千。
その軍勢がアルト村の南に現れたのは、翌朝だった。
騎兵五百。
歩兵四千。
弓兵五百。
装備は整っていた。
だが、兵士たちの顔は痩せていた。
馬も衰弱していた。
食料不足が、軍全体を蝕んでいた。
ローデン伯爵は馬上から村を見下ろした。
「……ここか」
副官が答えた。
「はい。農地防衛隊が占拠している村です」
「食料は?」
「種麦が残っているようです」
ローデンは頷いた。
「ならば、奪う」
副官は少し躊躇した。
「……ですが、伯爵様」
「何だ?」
「種麦を食べれば、来年の収穫が……」
ローデンは冷たく答えた。
「来年の話をするな」
副官は黙った。
「俺の兵士は、あと二日しか食えん」
ローデンは剣を抜いた。
「二日後に死ぬ者に、来年の麦など何の意味がある!」
軍勢が動いた。
アルト村を包囲するように展開した。
村の中では、警鐘が鳴り響いた。
「敵軍接近!」
「五千だ!」
「全員、避難しろ!」
エリクは村の中央に立っていた。
カールが報告した。
「戦闘可能な兵士は六百ほどだ」
「……六百」
「ああ」
「相手は五千」
「そうだ」
ガルムが言った。
「正面から戦えば、全滅する」
エリクは頷いた。
だが、逃げることもできなかった。
ここを捨てれば、畑を失う。
種麦を失う。
そして、来年の食料を失う。
クリスがエリクの袖を引いた。
「お兄ちゃん……」
「どうした?」
「また、逃げるの?」
エリクは妹を見た。
母が死んだ日。
村が焼かれた日。
街で麦を奪い合った日。
何度も逃げた。
何度も食料を失った。
何度も人が死んだ。
エリクはクリスの頭を撫でた。
「……今度は、逃げない」
クリスは頷いた。
「うん」
エリクはカールに向き直った。
「村を守ります」
カールは頷いた。
「分かった」
「ただし、畑は絶対に焼かせません」
「……難しいぞ」
「分かっています」
エリクは続けた。
「食料を守るために、食料を失う戦争はしたくありません」
そのとき、敵軍から使者が現れた。
白い旗を掲げていた。
「ローデン伯爵からの通告だ!」
使者が叫んだ。
「村の食料をすべて引き渡せ!」
エリクは答えた。
「断ります!」
「拒否すれば、村を焼く!」
エリクは拳を握った。
使者は続けた。
「明日の正午までに返答せよ!」
そして、最後に言った。
「従わなければ、農民も子供も容赦しない!」
包囲軍が近づくと、村の子供たちは麦の穂を一本ずつ布に包んだ。
避難するときに持っていく種だった。
包囲が始まると、村の井戸では汲む順番を決める札が作られた。
敵が攻めてこなくても、水と食料は減っていく。
エリクは城壁ではなく、井戸端に集まる人々の顔を見ていた。
包囲された村で、最初に不足したのは矢ではなく水桶だった。
火矢を受ければ家が燃える。
井戸へ走る人手を残せば、柵を守る者が減る。
カールは兵を半分ずつ交代させ、農民には逃げ道を開けておくよう頼んだ。
「畑を守るために村人を閉じ込めるな」
エリクはその言葉を伝えて回った。
包囲の内側では、兵士より先に子供が空腹を訴えた。
カールは食料庫の鍵をエリクへ渡す。
「何日持つか、全員に伝えよう」
残りの日数を隠さないことが、村を一つに保つ最初の防壁になった。
包囲された村の中では、一日がいつもより短かった。
水と麦が減る速さに合わせて、誰の声も小さくなっていった。
使者は去った。
村には、重苦しい沈黙が落ちた。
カールが呟いた。
「……明日の正午か」
ガルムは斧を握り直した。
「準備するしかないな」
エリクは地図を広げた。
村の周囲には畑がある。
水路がある。
小さな丘がある。
そして、南には古い石橋があった。
エリクは、その橋を見つめた。
「……待ってください」
カールが顔を上げた。
「何だ?」
「敵軍は五千人ですよね?」
「ああ」
「食料は二日分」
「そうだ」
「なら、敵軍にも弱点があります」
カールは眉をひそめた。
「……何を考えている?」
エリクは答えた。
「戦わずに、敵を飢えさせるんです」
ガルムが目を見開いた。
「……何?」
エリクは続けた。
「敵は食料を求めて来ています。ですが、ここで戦えば、麦畑が失われる」
そして、地図を指差した。
「だから、戦場を村の外に移します」
カールはしばらく地図を見つめた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど」
エリクは言った。
「敵軍を、石橋の向こうへ誘導します」
「その後は?」
「橋を封鎖します」
ガルムが尋ねた。
「それでどうする?」
エリクは静かに答えた。
「敵が食料を失うまで、待ちます」
カールはエリクを見た。
「……お前は、恐ろしいことを考えるな」
エリクは首を振った。
「恐ろしいのは、飢えです」
そして続けた。
「五千人の兵士を殺したいわけじゃありません」
エリクは窓の外を見た。
畑では、農民たちが種麦を運んでいた。
「……五千人を、畑を守る仲間にしたいんです」
カールは何も言わなかった。
ガルムも黙っていた。
だが、二人は理解していた。
エリクが考えているのは、単なる防衛戦ではない。
飢えた軍隊そのものを変える戦いだった。
その夜。
アルト村では、誰も眠らなかった。
兵士たちは石橋へ向かった。
農民たちは種麦を隠した。
女たちは水を運んだ。
子供たちは地下室へ避難した。
そしてエリクは、夜明けまで地図を見つめていた。
明日の戦いに負ければ、すべてが終わる。
だが、勝ったとしても、五千人の食料問題は残る。
その答えを見つけなければ、本当の勝利にはならない。
夜明け前。
エリクは一人、畑に出た。
冷たい風が吹いていた。
土はまだ固かった。
だが、春になれば、ここに麦が育つ。
エリクは土を一握り掴んだ。
「……絶対に守る」
そのとき、遠くで角笛が鳴った。
敵軍が動き始めたのだ。
五千の軍勢。
六百の守備兵。
そして、数千人の農民たち。
双方の食料は残り少ない。
角笛が二度鳴り、橋の向こうで最初の盾が動いた。




