第十四話 三万人の兵士が、最後の麦畑を奪い合った
王国南部、グラン平原。
三年続いた凶作の末、例年の四分の一しか麦が実らなかった。
それでも、ほかの土地よりは豊かだった。
だから三つの領主軍が集まった。
畑を踏み荒らす軍靴の下で、まだ青い麦が折れた。
兵士たちはその麦を奪うために戦っている。
エリクには、勝者が決まるころには誰も食べられない畑になるように見えた。
東のヴァルド伯爵軍、一万二千。
西のグレイン侯爵軍、一万。
南のローデン伯爵軍、八千。
三万人の兵士が、収穫を待つ麦畑を囲んだ。
畑の持ち主である農民たちは、どの軍からも「協力」を命じられた。
協力とは、収穫を差し出すことだった。
「麦を渡せば村は冬を越せません」
村長の訴えに、ヴァルド軍の将軍は答えた。
「渡さなければ敵に奪われる。敵が来れば村も焼かれる」
村長は返す言葉を失った。
夜明け前、カールは三軍の配置を地図に写し取った。
東軍の荷車は百二十台、西軍は九十台、南軍は七十台。
いずれも帰路に空の荷車を並べる余裕すらない。
「三万人が一日に必要とする穀物は、配給を切り詰めても十数トンに達する。ここで勝ったところで、収穫まで待つこともできない」補給係は唇を噛んだ。
三軍が求めているのは、まだ畑に生えた青い麦だった。
倉に積まれた食料ではない。
農民の代表は三軍の陣を回り、刈り取りまで畑を踏まないよう訴えた。
西軍の副官だけが話を聞いたが、総大将は「相手が守る保証はない」と退けた。
エリクはそこで初めて、誰もが畑を守りたいと思っていても、誰も相手を信じなければ畑は失われるのだと知った。
軍議では補給係が報告した。
「我が軍の食料は三日分。馬の飼料は明朝で尽きます」
「敵軍は?」
「同じく飢えています。互いに相手の倉庫を狙っているようです」
将軍は地図に手を置いた。
「では、誰の倉庫にも十分な麦はないのか」
補給係は黙った。
「今ここで戦えば、畑が潰れます」
若い副官が進言した。
「三軍で収穫を分ける交渉を」
「交渉の間に敵が先に刈り取ったらどうする」
「それでも、畑を失うよりは」
将軍は副官を退けた。
明朝、攻撃すると決めた。
夜、畑の縁では農夫たちが種にする穂を選んでいた。
「全部隠すのか」
少年が父に尋ねた。
「少しだけだ。見つかれば兵に取られる」
父親は布袋を土へ埋めた。
「これを食えば一日生きられる。でも播けば、来年も生きられるかもしれない」
戦いの前夜、東軍の炊事場では、一つの鍋を二十人が囲んでいた。
底には麦粒がわずかに沈むだけだった。
「明日勝てば腹いっぱい食えるんだろうな」
若い兵の問いに、炊事係は答えなかった。
補給台帳には、馬の飼葉も兵の糧食も赤い印が並んでいた。
勝ったあと収穫まで待つ食料がない。
カールは三軍の使者に、収穫前の畑を中立地帯とする提案を届けた。
三軍から監視役を出し、刈り取り後に村人の冬越し分と種麦を先に確保する案だった。
西軍の使者は署名しかけた。
だが東軍が先に進軍したという誤報が入り、紙を破った。
誰も畑を失いたくなかった。
だが相手より先に動かなければ奪われると信じていた。
翌朝、三軍が同時に動いた。
角笛が響き、騎兵が畑へ突入した。
刈り取りを待っていた穂が、馬蹄の下で折れた。
歩兵が進み、踏み倒された麦は泥と血にまみれた。
「畑を避けろ!」
副官の声は号令にかき消された。
一時間で二千人が倒れた。
正午には、兵士たちが相手の麦袋を奪って中身を確かめ、絶望する姿があちこちに見えた。
「空だ……」
「こっちもだ!」
勝った側も負けた側も、食料を持っていなかった。
麦畑を踏み荒らせば、敵の食料を奪える。
だが同じ土から、来年の自分たちの食料も消える。
その矛盾が戦場をさらに狭くした。
夕方、ヴァルド軍が中央の畑を確保した。
「勝利です!」
伝令が叫んだ。
将軍は尋ねた。
「収穫はどれだけ残った」
「……半分以上が踏み荒らされ、残りも刈り取りが難しい状態です」
「死者は」
「三軍合わせて、数千人に」
三万人の兵が畑を囲むなか、刈り残された麦が風に揺れていた。
カールは地図ではなく、畑の端に立つ農夫を見た。
「ここで勝っても、踏み荒らしたら食うものがなくなる」
その言葉で、突撃の合図が遅れた。
将軍は椅子に腰を落とした。
兵士が捕らえた農夫を連れてきた。
男は穂を胸に抱えていた。
「麦を盗もうとしていました」
「盗む?」
農夫が顔を上げた。
「俺の畑です。子供のために種を拾っていたんです」
将軍は何も言えなかった。
「あなた方は、食べ物が欲しくて来たんでしょう」
農夫の声は震えていた。
「なのに、どうして食べ物を踏んだんですか」
その夜、勝利した兵士たちは水だけを飲んで眠った。
将軍は副官を呼んだ。
「残った畑に兵を入れるな。農夫に返せ。刈り取りを手伝わせろ」
「兵の食料はどうします」
踏み荒らされた畑の端で、農夫は折れた穂を一本ずつ起こしていた。
勝った兵士が手伝おうとすると、農夫は鍬を突きつけた。
その夕方、カールは折れた麦穂を一つ拾った。
「敵の死者は数えられる。だが、この穂が実らなかったせいで冬に死ぬ人間は、どの軍の損害表にも載らない」
エリクは農夫に尋ねた。
「残った畑だけで、何人が春まで食べられますか」
農夫は泥だらけの手を見た。
「数えたくない。数えれば、食べさせられない子の顔が浮かぶ」
「それでも数えましょう。足りない分を知らせなければ、別の軍が同じ畑を踏みます」
カールは初めて、敵兵の配置図の横に、収穫不能になった畑の地図を置いた。
「お前らが踏んだ」
兵士は言い返さず、鎧を脱いで泥の中に膝をついた。
麦が元に戻るわけではない。
それでも、刈り取りまで畑に立つという約束だけが、二人の間に残った。
「……それを、明日考える」
命令は遅すぎた。
だが、明日までに残った穂を守らなければ、次の春も来なかった。
戦場から戻った伝令は、勝敗ではなく荷車の数を報告した。
「三軍の荷車は合わせて二百八十台。そのうち、すでに荷を積めない車もあります。東軍も昨日から馬の飼葉を削っています」
将軍は地図の麦畑に指を置いた。
「ここを取れば、三万人が食えるのか」
軍の書記が首を振った。
「一人一日五百グラムの穀物でも、三万人で一日十五トン。十日で百五十トンです。ここで刈り取れる麦は、その全部には届きません。まして種を残さなければ来年がありません」
「ならば、なぜ戦う」
答えたのは農夫だった。
「勝てば今日の飯が手に入ると思っているからです。俺たちの来年を数に入れずに」
将軍は収穫を守るための停戦使節を送った。
しかし使節が白旗を掲げて戻る前に、先鋒同士が矢を放った。
停戦命令は戦場の端まで届かず、麦畑に火が移った。
戦いが終わったとき、将軍は勝敗の報告書の余白に書かせた。
『踏み荒らした畑の面積、失われた種麦、収穫を待つ家族の数』
その数字を戦果として報告する者は、どちらの軍にもいなかった。




