第十三話 最初の勝利は、麦三千袋だった
夜明け前。
ベルンの街は二つに分かれていた。
領主に従う兵士三百人。
反乱を起こした兵士百二十人。
そして、飢えた民衆数千人。
エリクはカールの隣に立っていた。
「勝てるんですか?」
エリクが尋ねた。
カールは首を振った。
「正面から戦えば負ける」
「では……」
「だから、正面から戦わない」
カールは地図を広げた。
アコギ商会の倉庫。
領主の城。
兵舎。
そして、街の水路。
「狙うのは城じゃない」
カールが言った。
「麦倉庫だ」
エリクは頷いた。
「五千袋あります」
「全部奪う必要はない」
「……どういうことですか?」
「民衆に食料を渡せば、領主に従う兵士たちも動揺する」
カールは続けた。
「彼らの家族も飢えているからな」
作戦は夜明けとともに始まった。
反乱兵が倉庫の正門を攻撃する。
その隙に、エリクたちが裏の水路から侵入する。
ガルムは斧を持っていた。
「……久しぶりに、まともな仕事だ」
エリクは苦笑した。
「倉庫破りがですか?」
「飢えた子供に麦を届ける仕事だ」
水路は狭かった。
汚水が膝まであった。
だが、誰も文句を言わなかった。
やがて、倉庫の地下に辿り着いた。
古い木の扉。
ガルムが斧を振り下ろした。
一撃。
二撃。
三撃。
扉が壊れた。
その先には、巨大な倉庫が広がっていた。
麦袋。
見渡す限り、麦だった。
エリクは立ち尽くした。
「……こんなに」
ガルムも言葉を失った。
村では、一袋の麦を奪うために十人が死んだ。
ベルンでは、半椀の配給を求めて百人が死んだ。
その間、この倉庫には何千袋もの麦が眠っていた。
エリクは拳を握った。
「……開けましょう」
ガルムが頷いた。
倉庫の大扉が開かれた。
外には、数千人の民衆が集まっていた。
最初は誰も動かなかった。
麦がある。
本当に麦がある。
それが信じられなかったのだ。
エリクは叫んだ。
「並んでください!」
群衆がざわめいた。
「子供と病人を先に!」
誰かが叫んだ。
「全部持っていけ!」
エリクは首を振った。
「全部奪えば、明日また飢えます!」
人々は静かになった。
「今必要な分だけ配ります!」
ガルムが麦袋を運び出した。
カールの兵士たちが列を整理した。
最初に麦を受け取ったのは、小さな女の子だった。
麦を数える係が一袋だけ多く報告した。
歓声が上がったあとで間違いと分かり、誰も係を責められなかった。
三千袋を数える手は震えていた。
勝利の報せが届いても、袋を開ける順番でまた争いが起こる。
エリクは戦利品ではなく、誰に何日分を届けるのかを書き始めた。
三千袋のうち何袋を種として残すかで、勝利の夜に言い争いが起きた。
「今日食わなきゃ明日はない」「全部食えば春がない」
エリクは帳簿を広げ、子供と病人の人数、耕せる畑の面積を書き出した。
計算は誰も満足させなかった。
それでも、奪った麦をただ食べ尽くすだけなら、次の軍隊と同じになる。
奪い返した麦三千袋を前に、歓声は長く続かなかった。
「誰に、何袋渡す?」と村長が尋ねた瞬間、勝利は仕事に変わった。
エリクは荷車ごとの数を書き出し、戦った者より先に病人へ運ぶよう頼んだ。
勝利の報告より先に、誰に何日分を渡せるかが問われた。
エリクは袋の数を数えながら、戦いに勝つことと人を救うことの違いを噛みしめた。
女の子は麦を両手で抱えた。
「……これ、食べていいの?」
エリクは頷いた。
「ああ」
「お母さんにも?」
「もちろんだ」
女の子は泣き出した。
その姿を見て、周囲の大人たちも泣いた。
誰も笑わなかった。
ただ、泣きながら麦を受け取っていた。
その日の夕方。
ベルンの街では、久しぶりに炊事の煙が上がった。
何千もの家で、麦粥が作られた。
エリクはクリスと一緒に、温かい麦粥を食べた。
「お兄ちゃん」
「何だ?」
「今日は、みんなご飯を食べられたね」
「ああ」
「明日も?」
エリクは少し考えた。
そして答えた。
「……明日も食べられるようにする」
クリスは笑った。
「約束だよ」
エリクは頷いた。
「約束する」
だが、その夜。
カールがエリクを呼び出した。
「……問題が起きた」
「何ですか?」
「倉庫の麦を数え直した」
「五千袋ですよね?」
「いや」
カールは首を振った。
「三千袋しか残っていなかった」
エリクは眉をひそめた。
「……二千袋は?」
「アコギが運び出したらしい」
「どこへ?」
カールは地図を指差した。
王国南部。
広大な穀倉地帯。
そこには、三つの領主の領地が接していた。
「南部では、すでに戦争が始まっている」
エリクは息を呑んだ。
「……戦争?」
「ああ」
カールは続けた。
「三つの領主が、最後の穀倉地帯を奪い合っている」
「……そんな」
「しかも、アコギは三つの軍すべてに麦を売っているらしい」
エリクは拳を握った。
カールはさらに言った。
「そして、もっと悪い知らせがある」
「……何ですか?」
「南部の戦争で、麦畑が焼かれ始めた」
沈黙が落ちた。
エリクは地図を見つめた。
麦を奪うための戦争。
その戦争によって、麦畑が焼かれている。
今年の食料だけではない。
来年の食料まで失われようとしていた。
カールは静かに言った。
「エリク。俺たちは、まだ何も解決していない」
エリクは頷いた。
「……分かっています」
カールは窓の外を見た。
街には、久しぶりに食事の煙が上がっていた。
「ベルンの街は、しばらく生き延びられる」
そして、続けた。
「だが、王国そのものが飢え始めている」
その頃。
王国南部では、三万の軍勢が麦畑を挟んで対峙していた。
片方の軍は、三日分の食料しか持っていなかった。
もう片方は、二日分しかなかった。
両軍の将軍は、同じ命令を下した。
「明日、総攻撃を行う」
将軍たちは敵の陣形より、残りの麦を恐れていた。
明後日の朝、兵士たちに食べさせるものがなかった。




