第十二話 飢えた兵士たちが、領主を裏切った
ベルンの城門が閉じられて二日目。
領主軍の兵舎にも、薄い麦粥しか届かなくなった。
「これで家族を守れと言うのか」
兵士の一人は剣を差したまま、村の井戸で水を汲むこともできずにいた。
領主を裏切れば処刑、従えば村人が死ぬ。
エリクはその男が剣を抜くのではなく、鞘ごと地面に置くのを待った。
兵士が椀を傾けると、底に麦粒が三つ残った。
若い百人隊長カール・フリックは、食事の席で誰も口を開かなくなったことに気づいていた。
怒鳴り声よりも、その沈黙のほうが怖かった。
夕方、故郷から手紙が届いた。
『母さんが昨日から何も食べていない。
門の外で待っている』
妹の文字だった。
カールは机に命令書を並べた。
『城門封鎖を継続。
無許可で開門した者は反逆罪とする』
扉を叩いたのは、古参兵のバルドだった。
「隊長、部下たちが門を開けようとしています」
「止めたのか」
「止められませんでした。俺の妻も外にいます」
カールは手紙を握り締めた。
「門を開ければ、難民が押し寄せる。街の麦はさらに足りなくなる」
「閉めておけば、門の外で死にます」
「分かっている!」
思わず怒鳴ったあと、カールは顔を伏せた。
彼は二年前、領主から剣を授かった日のことを覚えていた。
民を守れ、と言われた。
あのときは、命令に従うことと民を守ることが同じだと思っていた。
夜半、兵士百二十人が兵舎の中庭に集まった。
「城門を開ける。ただし、武器を持つ者は入れない。門前で倒れた者を先に運ぶ。略奪を許さない」
カールが告げると、若い兵士が震える声で聞いた。
「隊長、俺たちは反逆者になるんですか」
「なるだろう」
「家族まで罰せられたら?」
カールはすぐには答えられなかった。
「怖い者は残れ。俺は命令を出した責任を負う」
誰も動かなかった。
城門では門番が剣を抜いた。
「開門の命令はない!」
「ある。俺が出す」
「お前にそんな権限はない!」
「知っている」
カールは剣を鞘ごと地面に置いた。
「だから、まず俺を捕らえてくれ。それでも門は開けてほしい」
門番の手が揺れた。
「……外には、俺の妻もいる」
剣を持つ手が揺らいだのは、恐怖だけではない。
守るはずの人々から食料を奪う命令に、兵士自身が答えを出せなくなっていた。
二人は顔を見合わせた。
門番は剣を下ろし、閂に手をかけた。
城門が開くと、人々は一斉に駆け込もうとした。
カールは兵を左右に並べ、負傷者と子供を先に通した。
遠くで警鐘が鳴った。
地下室にいたエリクは、その音を聞いた。
「城門が開いた!」
兵士たちが槍を伏せた理由は、忠義を失ったからではなかった。
三日間、炊事場の煙が上がらなかったからだ。
「命令より先に、食わせてくれ」
一人が言うと、隊列の奥で誰かが頷いた。
駆け込んできた若者が叫ぶ。
ガルムは傷ついた腕を押さえながら立ち上がった。
「領主の兵が寝返ったのか」
「分かりません。でも、今なら麦を配らせられるかもしれない」
二人が通りへ出ると、門から運び込まれた老人が壁際に横たわっていた。
兵士が自分の椀の粥を老人の口へ運んでいる。
その先にカールがいた。
「君がエリクか」
「そうです」
「民衆を集めた少年だと聞いた」
「集まったのは、みんな飢えていたからです」
カールは頷いた。
「俺たちは領主の命令に背いた。だが、街の人間を見捨てるつもりはない」
エリクは差し出された手を握った。
カールの部下たちは、槍を地面に置いても互いを警戒していた。
領主に逆らった以上、戻る砦はない。
「俺たちを信じろとは言わない」とカールは告げた。
「まず負傷者を運ぶ。次に配給を守る。俺たちの働きを見てから決めてくれ」
エリクは頷いた。
兵士の誓いより、明日どこに立つかのほうが確かだった。
その瞬間、城の方から軍靴の音が近づいた。
門を開けただけでは、まだ誰も救えていない。
戦列から離れた若い兵士が、カールに剣を差し出した。
「領主に背けば、故郷の家族が罰せられます」
カールは受け取らなかった。
名を書く兵士の手は、剣を握っていたときより震えていた。
家族の居場所を明かすことは、領主に逆らう証拠を自分で残すことでもあった。
「剣を置く前に、家族の名と村を書け。守ると約束するには、まず誰を守るのか知らねばならん」
兵士は震える指で名を記した。
裏切りを決めた瞬間から、彼には敵より怖いものができていた。
夜、カールは門の錠前に手を置いた。
命令書には領主の印があり、門の向こうには母を待つ兵士たちの家族がいる。
「開ければ反逆だ」とバルドが言った。
「閉じていても、俺は何人死なせたか知ることになる」
カールは部下に、門を開ける前に避難民の通り道と炊き出しの場所を確保させた。
反抗は衝動ではなく、責任を引き受ける命令になった。
門を開ける直前、カールは副官に剣を預けた。
「俺の命令で開ける。部下が勝手にしたことにはするな」
副官は受け取らなかった。
「それでは隊長だけが裁かれます」
「誰かが裁かれるなら、命令を出した俺だ。お前たちは門の外の子供を炊事場まで運べ」
副官は一度だけ敬礼した。
カールはその敬礼が、これまで受けたどのものより重いと感じた。
翌朝、カールは脱走兵の名簿を封じ、使者を三つの村へ走らせた。
兵の数を増やす報告より、村に残した家族が無事だったという返事を待った。




