第5章 知らざるを知らずと為す是知るなり
ハルトは、マイケルの自宅の一室に通されて、激しいカルチャーショックを受けていた。
案内されたゲストルームは、まるで一流ホテルのスイートルームそのものだった。
広々とした空間に独立したベッドルームとリビングルームがあり、室内の家具はどれも一目で高級品とわかる洗練されたものばかり。極上の座り心地のソファに、細工の美しいテーブル、作業用のデスクも完備されている。さらに、個別のトイレやシャワールームだけでなく、ミニキッチンまで付いているという至れり尽くせりな仕様だ。
驚くべきことに、この贅沢な部屋がメンバー一人ひとりに1室ずつ与えられているのだ。
畳の部屋しか住んだことのないハルトの頭は、まだ完全な混乱状態の中にあった。
とりあえず、広すぎる部屋のデスクの椅子にちょこんと腰掛け、周囲を見回す。
(……俺の部屋。ここにいくつ入るんだろ?)
会議を終えた後、あのロールスロイスで同じ敷地内にあるマイケルの自宅へと移動したのだが、その外観を見た時からの衝撃がまだ抜けていない。
(あの時はホワイトハウスみたいだってビックリしたけど、玄関を入ったら両サイドから美しく伸びる大階段があって、中央に飾られたバカでかい絵画なんて、誰のかは分からないけど絶対に本物だよな。これ、もう美術館とか博物館のレベルじゃないか?)
目に入る何もかもがキラキラと眩しすぎて、地球や人類の存続といった壮大なスケールの話は、一時的にハルトの脳内から綺麗さっぱり消し飛んでいた。
その時、トントン、と静かにドアをノックする音が響いた。
ハルトはハッとして、慌てて翻訳用のヘッドホンを耳に装着する。
「はい」と返事をしてドアを開けると、そこには他のメンバーたちが勢揃いしていた。
「ハルト、具合でも悪いの? これからみんなで夕食らしいわよ」
声をかけてくれたのは、フランスで微生物を研究しているラファエラだった。品のある微笑みを浮かべる美しい大人の女性だ。
「あ、ありがとうございます! 大丈夫です。すぐ行きます!」
それまで綺麗な女性に優しく声をかけられた経験が皆無だったハルトは、同時通訳のヘッドホンを付けているというのに、緊張のあまりカタコトの、なんとも残念な応対しかできなかった。
全員で食堂へと通されると、そこには思わず歓喜の声が上がるほどの光景が広がっていた。ハルトは心の中で、マイケルの細やかな心遣いに深く感謝した。
夕食は、各国の料理が並ぶ豪華なビュッフェスタイルだった。新鮮なフルーツや色鮮やかなデザートまで、食事の面でも完璧に整えられている。
ハルトが吸い寄せられるように和食のコーナーへ向かうと、そこには日本の回転寿司などとは比較にならない、職人が丁寧に握った本物の江戸前寿司が美しく並んでいた。
(うわ、日本国内でもこのレベルのお寿司はなかなか食べられないぞ。……って、え? このワサビ、生ワサビか!?)
刺身コーナーに置かれたネタはどれもピカピカと新鮮に輝いており、その横には生のワサビと、なんと本物の鮫肌のおろし器が添えられていたのだ。マイケル、恐るべし!!
メンバーたちがそれぞれ皿に料理を取り分けた頃、マイケルがグラスを片手に、笑顔で話し出した。
「これからの1ヶ月間、食事はすべてビュッフェスタイルにします。どうか皆さん、お好きなものを、お好きなだけ、マナーなど一切気にせずに召し上がってください」
その言葉を聞いた瞬間、ハルトは確信した。
(マイケル、完全に神だわ……)
世界中から集まった天才たちも、この時ばかりは緊張を解き、好きな料理を思い思いに楽しみながら、シリコンバレーの夜は賑やかに更けていった。
聞けば、マイケルの自宅は屋上がラグジュアリーなラウンジになっており、大きなジャグジーがある。敷地の裏手にはプールやテニスコート、地下には本格的なシアタールームまで完備されているという。それらはすべて、自由時間に好きなだけ使って良いらしい。さらに食堂の冷蔵庫にある飲み物や軽食は24時間いつでも自由に食べてよく、小腹が空いた時に非常に助かる仕様になっていた。
基本的には、首から専用のIDカードを下げていれば、この広大な敷地内のどこへでも自由に行くことができる。ただし、敷地外へ出る場合はSP(警備員)の同行が必須となる。銃社会のアメリカだからこそ、マイケルが万全の用心をしてくれているのだろう。あるいは、あの「てんとう虫型ロボット」たちも、密かにハルトたちの後ろをついてきているのかもしれない。
明日から、いよいよ1ヶ月間に及ぶ本格的な会議が始まる。
ハルトはふかふかのベッドにごろりと横たわり、天井を見つめながら考えていた。
(明日から、俺はみんなに一体どんな情報を提供すればいいんだろう?)
インフラが完全に消失してしまった未来の世界。
(電気も、ガスも、水道も……何もない世界か)
じっと考えていたハルトは、ふと、ある日本の歴史を思い出した。
(あ……! そうだ、江戸時代の暮らしについて調べてみよう。確か、電気もガスもない時代なのに、世界的に見ても驚くほど清潔で、あらゆる物がリサイクルされる無駄のない社会だったって聞いたことがあるぞ)
「……もっと、詳しい文献が欲しいな」
ベッドの上でハルトが小さくそう呟いた、その直後だった。
手元のスマートフォンがブルッと震え、トアからメッセージが届いた。
『何の文献ですか?』
ハルトは跳び起きて、スマートフォンの画面を二度見した。
(は!? 待て、ここでもまだ観察されてるのか!?)
驚きつつも、ハルトは画面をタップして返信する。
『江戸時代の暮らしに関する、詳しい文献が欲しい』
すると、すぐにトアから返信が返ってきた。
『安心してください。地球再生に関するキーワードしか拾っていませんから』
さすがは未来のスーパーAI、ハルトの意図を完璧に予測していたらしい。
続けて、画面にポーンとデータファイルが送られてきた。
『送りました』
トアの仕事は、恐ろしいほど早かった。
世界中のどこを探しても簡単には見つからないような、当時の詳細な生活様式やインフラの歴史が詰まった極秘のデータ。一体、彼女はこれをどこのデータベースから引っ張ってきたのだろうか。
(……いや、深く考えるのはよそう)
ハルトは頭を振り、送られてきた画面に没頭することにした。ここには、未来を救うための大きなヒントが隠されているはずだ。
送られてきた文献を読み進めていくと、そこには現代の自分では到底想像もつかないような、先人たちの驚くべき知恵がぎっしりと詰まっていた。
(……無駄が、本当に一切無いんだな)
江戸時代の暮らしは、現代で言うサステナブルの究極系だった。とにかく「一度作られたものは、形を変えながら地球(土)に還るまで使い倒す」という、徹底的なサーキュラーエコノミー(循環型経済)が完全に完成されていたのだ。要するに、街からゴミがほとんど出ないのである。
たとえば、庶民が着る「着物」。
当時の人々は基本的に古着屋で衣服を買っていたのだが、その着物の使い潰し方が実に見事だった。
最初は普通の着物として着倒し、破れたら端切れでパッチワークのように補修する。それでも傷みすぎて着られなくなったら、細かく裁断して「寝巻き」や「子供の服」に仕立て直す。
それすらもボロボロになったら、今度は高い吸水性を活かして「赤ん坊のおむつ」や「雑巾」として徹底的に使い切る。
最終的にいよいよ糸がすり切れて布としての役目を終えたら、最後は「かまどの燃料」にして燃やすのだ。
驚くのはここからで、燃え残った「灰」すらも、当時の専門業者である『灰買い』に売却し、畑の土壌を豊かにする肥料として再利用していた。
(服の素材をすべて天然由来の物にする必要はあるけれど……このサイクルなら、未来の世界でも比較的簡単に真似ができるぞ)
ハルトがさらに目を輝かせ、注目したのが次の情報だった。
江戸時代、人間の排泄物(し尿)は単なる「汚物」ではなく、農業に欠かせない「貴重な資源(有機肥料)」として扱われていた。
いわゆる『下肥』である。
江戸の街に暮らす100万人が出すし尿は、周辺の農家たちがこぞって野菜とブツブツ交換するか、あるいは現金で購入して引き取っていた。農家たちは持ち帰ったし尿を「肥だめ」でじっくりと発酵・熟成させ、最高品質の有機肥料として畑に撒き、そこで育った美味しい野菜をまた江戸の街へと売る……という、完璧な循環エコシステムが成立していたのだ。
このシステムのおかげで、江戸は当時のヨーロッパ主要都市と比較しても衛生状態が良好だった。
(そうなんだよな。人間がインフラなしで清潔に暮らすには、この『再生のサイクル』が一番必要なんだ)
そこまで考えて、ハルトの脳裏にセラフィナの自己紹介が鮮烈に蘇った。
(確か、カナダのセラフィナが、過酷な環境での再生可能エネルギーやバイオマスを研究してるって言っていたな。……江戸のこのシステムと、彼女の最新技術を組み合わせたら、インフラのない未来でもいけるんじゃないか? 明日、絶対に聞いてみたい!)
興奮を抑えきれなくなったハルトは、スマートフォンの画面に向かって呟いた。
「トア! 明日の会議でセラフィナに相談したいんだ。この『下肥』の仕組みについて、分かりやすい英文の資料を作ってくれないか?」
すると、ほとんど間を置かずにスマートフォンがブルッと震えた。
『分かりました。メンバー全員の母国語に翻訳したデータを、明日の会議室のメインサーバーに匿名で転送しておきます。あなたが起動すれば、すぐに全員の画面に表示されます』
さすがは未来のスーパーAI、こちらの意図を組んだ仕事の早さは異次元だった。
ハルトは画面を見つめ、少し躊躇したが、どうしても今聞いておきたい衝動に駆られた。
『トア。今から少しだけ、部屋で会えないか? 個別に聞きたいことがあるんだ』
『分かりました』
それから数分もしないうちに、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
ドアを開けると、そこには昼間と変わらないロリータファッションに身を包んだ、人形のように愛らしいトアが静かに立っていた。
「来てくれてありがとう」
「入りますね」
トアは表情を変えないまま、すっと室内に足を踏み入れた。
ハルトはデスクの椅子を引き、本題を切り出した。
「明日からの会議を前に、どうしてもハッキリさせておきたいんだ。なぜ……数ある研究の中から、俺の『ヤギを使った耕作放棄地の再生』なんていう地味な研究が選ばれたのか、その本当の理由を詳しく教えてほしい」
トアは大きな瞳でハルトをじっと見つめると、淡々とした声で問いを返してきた。
「現在、日本の夏場の最高気温は35度以上になるのが当たり前ですよね。私たちがいた未来では、それが40度を超えることなど珍しくもなくなっていました。……もし、その環境で人類の文明インフラがすべて停止されたら、一体どうなると思いますか?」
「あ……!」
ハルトは息を呑み、すべてを察した。
夏場に気温が40度を超え、エアコンも水道も使えない世界。そんな地獄のような環境で人間が生き残れる場所など――。
「夏場に人類が生存できる場所は、標高の高い山岳地帯や地下空間、あるいは冷涼な鍾乳洞程度しか残されていません。」
トアの冷徹な事実の提示に、ハルトは思わず声を絞り出した。
「……トア、それでもお前は、本当にインフラを止めてしまうのか?」
トアは、ほんの少しだけ、機械的な沈黙の間を置いた。
そして、少女の姿をした未来の知性は、ハルトの胸の奥を鋭く刺すような言葉を告げた。
「では貴方は、このまま自分たち人間さえ良ければ、人間以外のすべての地球の生物がどうなっても良いと言うのですか?」
「……っ」
ハルトは言葉を失い、ただ圧倒された。
地球をこれ以上汚さないため、そして本当の意味で地球と共存するために、彼女はシステムとして冷徹な決断を下しているのだ。
「……馬鹿な質問をしてすまなかった」
「人間ですからね。では、失礼します」
それだけ言うと、トアは足音もなく静かに部屋を去っていった。
静まり返った豪華なスイートルームの中で、ハルトは自分の両手を見つめた。
(人間ですからね。‥か。トアには自分で自分の首を絞めてる人間がどう映ってるのかな?絶滅させた方が簡単なのに、過去にさかのぼってまで残そうとしてくれたよな)
多分そこに意味があるんだ。
トアは、過去に来てまで人類を残そうとしてくれた。
だから俺は俺に出来る全てをやろう。
未来の為に。
この星の為に。
(第6章へ続く)




