第39章 新たな一歩
あれから、4年の月日が流れた。
『結の郷』の敷地には、源さんたちが組み上げた圧巻の三重の塔が完成し、その静謐な佇まいが郷のシンボルとなっていた。鈴木千代さんと娘さんたちは、自ら糸を紡ぎ、草木で染め上げた最高の「結城紬」を織り上げている。
冷暗な鍾乳洞の中では、大迫家と斎藤さんが木樽と蒸留技術を駆使し、高濃度エタノールの精製実験に見事成功し、医療用として利用できる品質の確保にも目処が立っていた。今では日本酒だけでなく、長期保存に耐えうる本格焼酎の醸造も始まっていた。藤丸さんの発酵味噌や和光さんの熟成チーズとともに、将来の自主財源となる商品化計画も順調に進んでいる。
さらに、地元の自然の恵みを器に変える備前焼陶芸家の宮地朔さん、1000年の長期保存に耐える手漉き紙を漉く備中和紙職人の要龍之介さん、そして精密なカルテや製図を描くための細筆を作る熊野筆職人の滝沢聡さんという、頼もしい手仕事の巨匠たちも仲間に加わっていた。
そして嬉しいことに、結の郷では次世代を担う新しい命も誕生していた。クリスと美琴には、2歳になる可愛い双子の子供がいて、美琴は3人目を妊娠中だ。
まだまだ必要な技術を持つ職人さんは多いが、トアが世界中から最適な人材を探し続けてくれている。
結の郷の完成は、いよいよ目前に迫っていた。
◇
そして、ついに迎えた――光の医師国家試験の合格発表日。
事務所の大きなデスクに置かれた端末の前に、ハルト、光、後藤、そしてクリスの4人が集まっていた。午後2時の発表時刻を控え、静まり返った室内には時計の針の音だけが響いている。
「どうしよう……もし、落ちてたら……」
光は膝の上で固く握りしめた手を震わせていた。医学部での過酷な6年間と、寝る間も惜しんで勉強した日々が頭を駆け巡る。
ハルトはそっと光の肩に手を置き、力強く微笑んだ。
「大丈夫だよ、光ちゃん。誰よりも頑張ってきたのを、俺たちが一番よく知ってるから」
壁の時計が、ぽんと午後2時を告げた。
ハルトが厚生労働省の特設ウェブサイトを更新する。アクセス集中で一瞬読み込みが止まり、次の瞬間、画面いっぱいに受験番号の一覧が躍り出た。スクロールする指を止め、数字を目で追う後藤。
「……あった!! 光の番号があったぞ!!」
後藤は声を張り上げ、その瞳には溢れ出る涙が光っていた。
光とハルトはお互いを見つめ合い、どちらからともなく抱きしめ合った。飛び跳ねながら、溢れ出る喜びを全身で分かち合う。
「おめでとうございます、光さん」
クリスが温かい拍手を送る。
「あ……ありがとうございます……っ!」
泣き笑いのような表情で答える光を見て、後藤が照れくさそうに目元を拭いながら言った。
「よしっ、次はハルトと光の結婚式だな!! こりゃあ忙しくなるぞ!」
「ハルト、本当に良かったですね」
「うん……!」
ハルトが深く頷いたその時、ドアが勢いよく開いてえまが顔を出した。
「なに何〜? 4人で美味しいものでも食べに行くの?」
「お前は……! 人が感動に浸ってる時に!!」
後藤が深いため息をつくと、えまは首をかしげた。
「なぁ〜んだ、違うんだ。あ、それよりお客さんが来てるんだけど……」
「え? 今日、誰かと約束なんてあったか?」
ハルトたちが首をかしげた直後、えまの後ろから静かに一人の女性が歩み出てきた。
40代半ばほどに見えるその女性は、日焼けした肌に鋭くも温かい眼光を宿し、洗練された野性味を漂わせている。
「突然押しかけてしまって申し訳ありません。私、陣内真樹子と申します。現在『国境なき医師団』に所属しておりまして……光さんをお迎えに、一時帰国いたしました」
一瞬で只者ではない気配を察したクリスは、すぐに大型バンを手配し、一行は岡山本部の会議室へと移動した。
重厚な机を囲み、陣内医師は静かに語り始めた。
事の発端は数日前。過酷な医療環境にあるヨルダンの難民キャンプで活動していた陣内に、『てんとう虫通信』を通じて、簡易メタバースとスーパーAI・トアからのダイレクトメッセージが届いたのだという。トアが直接個人へ干渉するのは異例中の異例だった。
トアは、将来的に世界のインフラが完全に停止する未来の真実を告げ、同時に「先端機器に頼り切った現代の大学病院では、真の臨床力は身につかない」と指摘。光を未来の最強の村医者として育てるための指導医として、限られた設備と物資で命を繋ぐ野外医療を知り尽くした陣内を選び抜いたのだった。
陣内は真っ直ぐに光の目を見つめた。
「光さん。私のいるヨルダンの難民キャンプには、CTも電子カルテも、満足な電気や水道すらありません。設備も薬も不足した現場で、自分の手と五感だけを頼りに命を繋ぐ……私の残りの任期である半年間、私と一緒にあの現場を経験してみませんか?」
光は、ハルトの手を固く握りしめたまま考え込んでいた。
「あの……大変有り難いお話なのですが、少し考えさせていただいてもいいですか? 一度に色々なことが起きすぎて……それに、結婚式のこともありますし……」
迷う光を見つめ、ハルトが優しく言葉をかける。
「光ちゃん。俺はどこにも行かないよ。ずっとここで待ってるから安心して。こんな機会は滅多にないと思う。トアが選んだ陣内先生なら安心だし、半年なんてあっという間だから。行っておいで」
「ハル兄……」
隣で仁が光の肩にぽんと手を置いた。
「ハルトの奴の心配はするな。俺がしっかり監視しとくからよ」
すると、えまがひょっこりと顔を出した。
「ねえ! 私も一緒に行ってイイかな? お役に立てるかもだし、向こうの珍しい薬草も見たいし!」
「おい待て! お前が行くと逆に心配なんだよ!」
また自分を実験台にして妙な薬を試すんじゃないかと焦る仁に、陣内が柔らかく微笑んだ。
「百草えまさんですね。ぜひいらしてください。現場は西洋医薬品が慢性的に不足しています。あなたの漢方や生薬の知識があれば、これほど心強いことはありません」
陣内の言葉に背中を押され、光は意を決したように深く頷いた。
「陣内さん……私も行きます。よろしくお願いします!」
こうして、光とえまの2人は、半年間に及ぶヨルダン難民キャンプでの医療活動へ旅立つことが決まったのだった。
◇
夜。満天の星がキラキラと輝く下、ハルトと光は静かな棚田のあぜ道に並んで腰かけていた。
「ハル兄との結婚式……ずっと楽しみにしてたの。私のずっと昔からの夢だったから……。難民キャンプでの経験が郷のためになるって頭では分かっているんだけど……えまちゃんみたいに素直に飛び込めなくて、そんな自分がちょっと嫌になっちゃうな」
光がぽつりと呟くと、ハルトは隣で小さな袋を開け、一着の仕立ての良い白衣を取り出して光に差し出した。
「俺だって、本当はすごく複雑なんだよ。ついて行けるなら一緒に行きたいくらいだ。半年も光ちゃんと離れるのは、正解だって分かってても寂しいよ。だから……せめてこれを持っていってほしい」
膝の上に置かれた白い衣に手を触れ、光はそれを愛おしそうにギューッと抱きしめた。
「……ありがとう、ハル兄。私、絶対頑張ってくるね!」
◇
出発の日、空港の国際線ロビー。
「仁君。私が留守の間、薬草園の子たちをよろしくね!」
「ああ、分かってるよ。それよりお前、絶対に危ない真似はするなよ? 無事に帰ってこいよ」
えまの言葉に力強く頷く後藤を見て、えまは少し意地悪そうに微笑んだ。
「分かった! 仁君も、私がいないからって浮気しちゃダメだよ? だって……私を貰ってくれるんでしょ?」
「なっ……! お前、しっかり聞こえてたんじゃないか!!」
勢いよく顔を赤くする仁の耳元へ、えまは背伸びをしてそっと顔を近づけた。
「ありがと、仁君。……私も大好きだよ! だから絶対帰ってくるからね」
囁くと同時に、チュッと仁のほっぺたにキスをした。固まる仁を置いて、えまは嬉しそうに笑っている。
一方、ハルトと光はお互いを見つめ合っていた。
「ハル兄……じゃあ、行ってくるね!」
「うん。……あ、これを持っていって。トアに頼んで特別に作ってもらったんだ」
ハルトが差し出した小さな小箱を開けると、中には精巧な『てんとう虫』型のデバイスが入っていた。
「俺たち専用の通信機だよ。寂しくなったら、いつでも話しかけて」
光は瞳を潤ませながら、花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「わあ……! これでいつでもハル兄と会話できるのね!」
「そうだよ。離れてても、いつだって一緒だから」
光は堪えきれずにハルトの胸へ飛び込み、力いっぱい抱きついた。
「ありがとう……ハル兄!」
ハルトは光を優しく抱きしめ返した後、傍らに立つ陣内へ向かい、深々と頭を下げた。
「陣内さん。光とえまを……よろしくお願いします」
「ええ、任せてください。私が持つ現場の知識と技術のすべてを、光さんに叩き込んできますね」
陣内の力強い言葉に見送られ、光、えま、そして陣内の3人は、新たな一歩を踏み出すために搭乗口へと向かっていった。
結の郷の棚田。
薬草畑の手入れをするハルトと後藤。
「しゃちょ〜さ〜ん」
クリスの双子の陸と海がちょこちょこ走ってくる。
「あ、そんなに走ったら危ないわよ」
お腹が少し目立ってきた美琴が後から
ついてくる。
「ハルト!麦茶持ってきたわよ」
「ありがとうミコ姉!!あ、ソレ重くない?」
慌て棚田を降りるハルト。
陸と海は、ハルトの足に抱きつく
「つかまえた〜」
陸と海の頭を撫でて
「ありがとな」
麦茶で喉を潤すハルトと後藤。
「今頃、光ちゃんとえまちゃんどうしているかしら?」
ハルトは空を見上げ
「きっと頑張って皆を助けてるさ」
後藤も空を見上げ
「そうだな。」
(離れ離れでも空と一緒で俺達は繋がっている。皆が新しい一歩を踏み出しているんだ。)
皆で流れる雲を眺めながら春の風を感じているのだった。
40章へ続く。




