第37章 芽吹く絆と風の香り
青く高い秋空の下、結の郷の棚田には、どこか甘く爽やかなハーブの香りが心地よく漂っていた。
えまがドイツから持ち帰ったカモミール、セントジョーンズワート、そして麻酔薬や解毒剤の原料となる希少なメディカルハーブの種。それらを健やかに育てるため、後藤とえまの二人は早朝から棚田の一角を新しく「メディカルハーブ園」として拡張する作業に追われていた。
「仁君! 畑の土がフワフワで、寝たら気持ち良さそうですね!」
「だから、仁君はやめろよな」
えまは両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませた。
「だって、後藤君は私より一つ年下じゃないですか! 薬学の世界では私の方が先輩ですし、人生の先輩として『仁くん』って呼ぶのは当然の権利です!」
「ここは薬学の研究所じゃなくて『結の郷』なんだよ! この土地を開墾して段取りを組んできたのは俺たちなんだから、ここでは俺が先輩だ。ほら、年上お姉さん、口を動かす暇があったら手を動かす!」
仁がひょいと小さな移植ゴテを差し出すと、えまは「むぅ……年下先輩のくせに生意気です」と口を尖らせつつも、素直に受け取って苗床の準備を再開した。
ふたりが並んで苗を植え付けていく。
えまの手つきは繊細で、生薬やハーブに対する深い愛情が指先から伝わってくるようだった。
「……でもさ」
仁が苗の根元に優しく土を被せながら、ポツリと呟いた。
えまが手を止めて顔を上げると、仁は照れくさそうに視線をあぜ道へとそらした。
「ガブリエル博士との『通仙ベルラ』の完成も、職人さんの道具の証明もすげぇ成果だけどさ。……お前が怪我なく、元気に笑って戻ってきたのが一番の成果だよ」
いつになく素直で温かい仁の言葉に、えまは一瞬パチパチと目を丸くした。そして、一気に顔を真っ赤にして慌て出す。
「バカですか!? な、なんですか急に! そんな爽やかな顔で本音を言われたら、調子が狂うじゃないですか……!」
「なんで褒めてバカ呼ばわりされるんだよ!?」
「だって! いつもみたいに『こら暴走薬草ヲタ!』って怒られた方が落ち着くんです!」
「お前のメンタルどうなってんだよ!!」
仁は腹を抱えて笑い出した。
普段は現場を束ねるリーダーとして気を張っている仁が、心底楽しそうに声を上げて笑っている。その笑顔を見て、えまの胸の奥が少しキュッと温かくなった。
「……仁くん、笑うと結構可愛い顔してるんですね」
「……っ!? お前、また余計なことを……!」
後藤が勢いよく立ち上がり、真っ赤になって顔を背けたその時——
「こんにちは〜」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには鈴木一家の姿があった。
三重の塔はまだ建設途中だったが、住居と染色工房が完成したため、一家はひと足先に結の郷への移住を始めたのだった。
「鈴木さん、いらっしゃい! 遠くから疲れたでしょう?」
と後藤は声をかけ、棚田から降りていく。
若菜は嬉しそうに目を細めた。
「後藤さん、お久しぶりです。お元気そうで良かったです。あ、これ、お土産のゆで饅頭です」
そこへ、えまがひょっこり顔を覗かせた。
「ゆでまんじゅうだぁ〜!!」
嬉しそうに目を輝かせるえまを見て、若菜が呆気にとられていると、後藤が苦笑いを浮かべた。
「すいません! コイツは百草えま。漢方専門の薬剤師です。ちょっと変な奴なんで気にしないでください」
「失礼しちゃうわね仁君! 私の方がお姉さんなんだから『コイツ』はないでしょ? あ、おまけに変な奴って言わなかった!?」
若菜は二人のやり取りを呆然と見つめた。
(え? 今、名前で呼んでなかった? どういうこと……? 後藤さんに彼女ができたの?)
「お〜い! ふたりとも、麦茶持ってきたぞ!」
あぜ道の向こうから、大きなカゴを手にしたハルトと美琴が歩いてきた。
「ハルトさん! 美琴さん!」
えまがパッと表情を輝かせて駆け寄る。
「ナイスタイミングです! ハルトさん、ちょうどゆでまんじゅうをいただいちゃいました♡」
えまは包みを勝手に開けて食べている。
「おい、勝手に食べるなよな! むぐっ!?」
えまは後藤の口にも強引に饅頭を突き刺した。
「これで同罪です!!」
賑やかな二人の様子を見て、鈴木千代がハルトに微笑みかける。
「元気なお嬢さんが来ましたね〜」
ハルトも優しく会釈を返した。
「新しく仲間になった漢方専門の薬剤師さんなんですよ。では鈴木さん、新居が完成していますから一緒に行きましょう」
ハルトが千代の持っていた大きな袋を代わりに持ち、みんなでワイワイと話し合いながら新居へと向かう。しかし、若菜は後藤とえまの距離感が気になって仕方がなかった。
「後藤さん、何かお手伝いできることはありますか?」
「こっちは大丈夫ですよ。ぜひ新居を見てきてください」
「分かりました。また今度お手伝いしますね」
若菜は少し残念そうにしながらも頷いた。
案内された新居を目にして大喜びする鈴木一家。こうして結の郷に、また新しい仲間が増えたのだった。
◇
後日。
後藤とえまが棚田で作業をしていると、若菜がやってきた。
「後藤さん、何かお手伝いできますか?」
「あ、じゃあここに種を蒔いてくれますか?」
「はい、分かりました!」
後藤が丁寧に教え込んでいると、いつの間にかえまの姿が見当たらなくなっていた。
「後藤さん! あそこ!!」
若菜の指さす方を見ると、えまが棚田の奥にある急斜面を必死によじ登っていた。
「あっ——!」
足のバランスを崩したえまは、悲鳴をあげる暇もなくドンッと勢いよく滑り落ちてしまった。
「えま!!」
後藤は血相を変えて走り出す。
「若菜さん、美琴さんを呼んできてくれ!!」
「分かりました!」
後藤が駆け寄ると、えまは額から血を流し、全身泥だらけで気を失っていた。
その瞬間、後藤の頭の中で血の気が引き、過去の記憶が激しくフラッシュバックする。
——10年近く前——
「仁!! 見て見て! 美味しそうなキノコがこんなにあるわ! まるでキノコ天国ね!」
「そんなの食べたら本当に天国行きだぞ!」
高校生の頃の後藤。
彼女の名は田丸由希子。中学時代から付き合っている、後藤の恋人だった。
明るくて少しドジな由希子を、後藤は心から愛おしく思っていた。同じ大学へ進み、将来は結婚して二人で自然に囲まれて暮らしたい——そう願っていた。
自然が好きな2人は、よく山でハイキングに出かける事が、多かった。
ある日、いつも通りハイキングに行った日、突然の豪雨による土砂崩れに2人は、巻き込まれてしまう。
後藤が病院で目を覚ました時、由希子はすでに帰らぬ人となっていたのだった。
——現在——
一瞬のうちに蘇る絶望の記憶。
後藤はハッと我にかえり、必死に声を張った。
「えま、えま! 大丈夫か!?」
いつも元気なえまが、抜け殻のように見える。後藤の身体に恐怖が走る。
(やめてくれ!!えまを失いたくない!!)
後藤は泥だらけのえまをしっかりと抱き上げ、夢中で走り出した。
◇
「んん……痛たた……あれ、ここは?」
目を覚ましたえまの視界に、顔色を変えた後藤の姿が飛び込んできた。
「気がついたか? ここは市立病院だよ」
「あ、私、落っこちちゃって……」
後藤の顔からは完全に血の気が引いていた。
「ぶ、無事で……本当に良かった……」
絞り出すような声は小刻みに震えている。握りしめられた手も冷たかった。
えまはその震えに気づくと、ゆっくりと体を起こした。
「仁君……」
優しく名前を呼び、そのままそっと後藤の体を抱きしめる。
「ごめんね。私は大丈夫だから」
その様子を病室のドア越しに見つめていたハルト、クリス、美琴、若菜。
クリスは静かに廊下へ下がり、みんなを促した。
「ここは後藤に任せて、何か飲みに行きましょう」
ラウンジでコーヒーを囲む四人。
「あんな後藤、初めて見たよ……」
ハルトがポツリと呟く。
「今回のことで、後藤さんは昔のトラウマを思い出したのでしょうね」
「え?」
ハルトと若菜が驚いて顔を上げる。
「後藤さんは、昔、最愛の人を亡くしているんです」
「え……そんなこと、俺、全然知らなかった……」
「トアが調べた資料にあったんですよ。最近、えまさんと接する中で後藤さんが少しずつ変わっていくのを見て、僕もホッとしていたんです」
言葉を失い、愕然とする若菜。
「俺、親友なのに……全然気づいてあげられなくて」
落胆するハルトに、美琴がそっと肩を抱き寄せた。
「そういうハルトだからこそ、親友になれたんだと思うよ。えまさんも一度に家族を失っているし、あの明るさは辛さを乗り越えるための裏返しかもしれないね。……ハルトは、いつも通りのハルトでいてあげればいいのよ」
「ミコ姉……うん、わかった。そうするよ」
若菜は、胸に秘めていた気持ちをそっと封印することを決意した。
「後藤さんとえまさんが、幸せになれるように祈ります」
その切なくも前向きな気持ちを察し、クリスと美琴は温かく微笑んだ。
「若菜さんもね」
◇
数日後、えまは無事に退院した。
棚田には、再び賑やかな二人の声が響いている。
「……で、結局何を取ろうとしてたんだ?」
「松茸」
その一言を聞いた瞬間、後藤は目を丸くしたあと、耐えきれずに吹き出した。
「ははっ……そう来たか」
「あれ? 何がおかしいの?」
「いや……なんでもない」
後藤は可笑しそうに首を振った。
(由希子なら『美味しそうなキノコ!』って飛びついてた。だけどえまは、ちゃんと松茸だって見抜いてる)
同じ山で、同じようにキノコを見つけても、目の前にいるのはえまだ。由希子の代わりなんかじゃない。
その当たり前の事実が、胸の奥に刺さっていた古い棘を優しくほどいてくれた。
「あ〜あ、土瓶蒸し食べたかったなぁ〜! 松茸のせいで、こんな可愛い私の額に傷がつくなんて最悪!!」
「大丈夫だ! 貰い手がいなかったら、俺が貰ってやるから安心しろ」
後藤は耳まで真っ赤にし、照れ隠しに反対側を向いて土をいじり始めた。
「え? 仁君、何か言った?」
「っ……な、なんでもないよ!! ったく、肝心な時にいつもこうだよなお前は!!」
「え〜! 仁君のケチ! 教えてよ〜!」
えまが顔を覗き込むと、後藤は「絶対ヤダ!」と真っ赤な顔を背けた。
そんな二人を、遠くからハルトが温かい眼差しで見つめていた。
(薬草園の拡張も順調そうだね。ふたりの息もぴったりだ)
風が吹き抜け、新しく植えられたハーブの若い葉がさらさらと音を立てる。
「仁くん! これからこの棚田を、世界一の薬草園にしましょうね!」
えまが太陽のような笑顔で手を差し出すと、仁は少し呆れたような、けれど愛おしさに満ちた目を向け、その手を力強く握り返した。
「おう」
年下先輩と年上後輩。
ぶつかり合いながらも確かに結ばれた二人の絆が、結の郷の豊かな大地に、新しい希望の芽をしっかりと育んでいくのだった。
(38章へ続く)




