第36章 臨床データを求めて
『通仙ベルラ』と職人たちの精密な器具を結の郷へ持ち帰り、無事に戻った百草えま。
しかし、帰還して数日もしないうちに、作業小屋の処置室から怒号と悲鳴が響き渡った。
「嫌ですー! 離してください後藤さん! 科学の発展には尊い犠牲……ううん、身体を張った実証が必要なんですーーって、どこ触ってるんですか!!」
右手に注射器を持ったえまを、後藤が後ろから押さえ込んでいた。右手で手首を押さえ、左手はえまの胸のあたりにある。
「犠牲とか物騒なこと言うんじゃないよ!! 頼むからその注射器を置け!! ……あ、悪い! 凹凸が無いから腹だと思って——イテッ!!」
えまが勢いよく後頭部で後藤の顎に頭突きをかました。
作業小屋の中では、ハルトの右腕として現場を束ねる後藤が、顎を押さえながら額に青筋を立ててえまの手首を必死で掴んでいる。
えまの手には、山本が吹いた精密ガラス注射器と真田のプラチナ合金属針。そこには淡い琥珀色の『通仙ベルラ』がなみなみと満たされていた。
「一体どうしたんだ二人は!?」
騒ぎを聞きつけたハルトと美琴、そしてクリスが飛び込んでくると、後藤は汗だくの顔で叫んだ。
「ハルト! こいつを止めてくれ! 自分が『通仙ベルラ』の人間での実験体になるって言い出して聞きやがらねぇんだ!」
「ええっ!?」
ハルトと美琴が目を丸くすると、えまは掴まれた手をぶんぶんと振り回しながら、目を爛々と輝かせて胸を張った。
「だってハルトさん! ドイツでガブリエル博士とやったのはウサギでの動物実験までです! 人間での安全性データがないと、実用化出来ないじゃないですか!!まだこの世のどこにも、人間に対する麻酔深度や作用時間、回復時間の臨床データが存在しないんですよ!?」
「え、えまちゃん!! とりあえず注射器を離して!!」
ハルトはあたふたと手を伸ばしている。
「『通仙ベルラ』は静脈に投与すれば全身麻酔になりますが、まずはごく少量を皮内投与して、安全性と局所の感覚変化を確認します。痛覚が消えるかどうか、足ツボ棒で確かめるんです!」
「皮下だろうが局所だろうが、自分を実験台にするんじゃないよ!! 頭大丈夫か!?」
後藤は必死で注射器を遠ざけようと止めている。
えまは熱弁を振るい、マシンガントークを開始した。
「未来のために、一刻も早く人間での安全域を証明しておきたいんです! 薬学を熟知した私が自ら被験者になって、効き目の経過をリアルタイムでメモするのが一番手っ取り早くて確実です! さあ後藤さん、私の足ツボを足ツボ棒で激痛が走るまで押し当ててください! 鎮痛効果を証明します!」
「なんで俺がそんなことやらなきゃいけないんだよ!!」
後藤が絶叫する横で、美琴が慌てて説得にかかる。
「えまさん、ダメよ! 気持ちは分かるけれど、万が一アナフィラキシーショックや強い副作用が起きたらどうするの!? あなたになにかあったら、結の郷の薬草園も医療も立ち行かなくなってしまうわ!」
えまは、自信に満ちた顔をして胸を張った。
「大丈夫です美琴さん! アレルギーの皮膚反応も確認済みです! 私は薬剤師です。だからこそ、自分で確かめずに患者さんへ使うなんてできません!それに、ガブリエル博士との相克理論は完璧なんです!」
「完璧なら自分に注射打つ必要ないだろっ!!」
後藤の至極当然のツッコミが処置室にこだました。
そこへ、てんとう虫通信からトアの機械音声が割り込んだ。
『提案。百草えまの生体データに基づく麻酔耐性および薬効予測シミュレーションは既に完了しています。本人が被験者となる必要性は 0.0001% 未満です。なお、後藤の血圧が上昇傾向にあります。深呼吸を推奨します』
「トア!! 余計なアナウンスすんな! 息は吸ってるって!!」
後藤が真っ赤になって叫ぶと、腕を組んで静観していたクリスがふっと優しく微笑み、二人の間に割って入った。
「えま。君の医療に対する圧倒的な情熱と、仲間を想う責任感には心から敬意を表します」
「ク、クリスさん……! 分かってくれますか!?」
「ええ。ですが……」
クリスはサッとえまの手から注射器を取り上げると、静かに彼女の目を見つめ、諭すように言葉を続けた。
「ガブリエルが君を日本へ送り返した理由を考えてみてください。彼は君の知識と情熱を認め、未来の命を救う『パートナー』として信頼したからこそ、無事に帰還させたのです。もし君がここで自分を傷つけ、万が一のことがあれば、ガブリエルも、そして僕たちも深く悲しむことになります」
「……あ」
えまは名残惜しそうに注射器を見つめたが、やがて小さく息を吐き、力なく肩を落とした。
さらに、後藤が少しバツの悪そうな顔をしながら、ポンとえまの頭に手を置いた。
「そうだぞ、えま。お前がドイツから持ち帰ってくれた麻酔薬やハーブの種で充分だよ。治験のデータなら、トアのシミュレーションと外部のネットワークを活かして、安全で正当な手続きで集めればいい。な?」
えまは、頭に乗せられた後藤の手をパシッと払いのけた。
「あの、何を勘違いしてるのか分かりませんが、後藤さんは私より一つ年下なんですが! 私の方がお姉さんなんですよ。頭に手を置かないでください、ゴ・ト・ウ君」
「!!」
後藤は言葉を失う。
「ハルトさん、クリスさん、美琴さん。すみません、私、焦りすぎて暴走しちゃいました……」
えまは深々と頭を下げる。
「ちょっと待て、俺は!?」
後藤は面白くないといった顔をする。
「分かってくれればいいんだよ。今後は、実験する前に相談してね」
微笑みながらハルトが言うと、
「分かりました!! ハルトさん」
と、えまはニッコリ答えた。
「良かった。じゃあえまちゃん、まずは後藤と一緒に、ドイツから持ってきてくれたハーブの種を棚田に植えに行くことから始めようか!」
「はいっ! 最高の薬草園を作って、正しく安全な『結の郷医療』を完成させます!」
「なんで俺なんだよ。ハルトも一緒にコイツの世話してくれてもいいだろ!!」
「ゴメン! これから光ちゃんと会うことになってるんだ」
するとトアが一言。
『天照家次世代継承プロジェクトですので、後藤がえまの世話をするのが有効です』
「え? 何のプロジェクト?」
えまの瞳が好奇心で爛々と輝きはじめた。
「トア! もうそれ禁止だからね!」
ハルトが叫ぶ。
「仕方ないな。ほら、えま行くぞ」
後藤がえまの服の襟をつまんで歩き出す。
「ち、ちょっと! 私がお姉さんなんだからね、そこ持たないでよ〜」
パン!と後藤の手を払いのけ、先に進むえま。
「ほら、仁!! 行くわよ!」
急に下の名前で呼ばれ、思わず顔を赤くする後藤。
「年は一つ下だけど、ここでは俺の方が先輩なんだから、敬えよな!」
ワイワイ言いながら棚田へ向かう二人。
「何かいい感じのコンビね」
美琴がそう言うと、
「そうだね。僕たちには負けるけどね」
と美琴の肩を抱き寄せるクリス。
ちょっと居堪れなくなったハルトは、そっと光のもとへ足早に急ぐのだった。
まだ暑さは残るものの、空には澄んだ秋の雲が流れていた。
(37章へ続く)




