第23章 帰郷と決意
額に汗しながら、ハルト・後藤・おじいさんが、シャインマスカットの収穫をしていた。その時、ハルトのポケットでスマホがけたたましく鳴り響いた。
画面を見ると、普段はめったにかかってこない父親からの着信だった。
「――えっ!? 母さんが!?」
ハルトの突然の大声に、後藤とおじいさんが手を止めて振り返る。通話を終えたハルトは、顔を真っ青にしてスマホを握りしめた。
「じいちゃん! 母さんが怪我して入院したらしいんだ。俺、これからすぐに東京に行ってくる!」
「何っ、陽子が、入院したんか! ……詳しいことはええ、婆ちゃんにも後で伝えておくから、ハルト、お前は早く行ってやりねぇ!」
「ここは、任せて早く病院へ行ってこい」
後藤がハルトの肩を強く叩いて送り出してくれる。ハルトは急いで家に戻り、おばあさんに事情を伝えてから、クリスに一報を入れて新幹線へと飛び乗った。
東京の病院に到着し、父親からメールで送られてきた病室のドアを、ハルトは息を切らせて開けた。
「母さんっ!!」
「あら、ハルト!!」
ベッドの上で上体を起こし、思ったよりも元気そうな声で迎えてくれた母親・陽子の姿に、ハルトは一気に肩の力が抜けて安堵の息を漏らした。
「母さん、一体何があったんだよ? 心配したんだぞ」
「ごめんなさいねぇ。階段から足を踏み外しちゃって、足首を骨折しちゃったの。我ながらドジよね」
少しバツが悪そうに、笑う母親に、ハルトはベッドの横に歩み寄る。
「足だけ? 頭とか他は打ってないんだね?」
「大丈夫よ、ピンピンしてるわ。それよりハルト、ずいぶん健康的に日焼けしたわね。男らしくなって」
「ああ、岡山の畑で毎日動いてるからね。あ、そうだ、これ。ばあちゃんが持って行けって」
ハルトがカバンから取り出したのは、おじいさんの畑で採れた、みずみずしく大粒に実ったシャインマスカットだった。ハルトは給湯室で一粒ずつ丁寧に洗い、器に盛って母の前に差し出した。
「まぁ、お父さんのマスカットね! ……ん、甘くてとっても美味しいわ。ハルトも後藤君と一緒に、毎日頑張ってお手伝いしてくれてるのよね」
「うん。大変だけど、毎日がすごく充実してるよ」
美味しそうにマスカットを頬張りながら嬉しそうに微笑む母親を見て、ハルトの心は温かくなった。
詳しく話を聞くと、ハルトに余計な心配をかけたくなくて今まで入院を黙っていたが、実際には一ヶ月も前のことで、もう数日で退院できる状態なのだという。ただ、その退院のタイミングに父親が外せない海外出張が入ってしまったため、急遽ハルトが呼ばれたというわけだった。
「とにかく、元気そうで本当に安心したよ。今日は一度家に戻って、明日また来るね」
ハルトは数年ぶりに、東京の実家のマンションへと帰宅した。
久々に足を踏み入れた自分の部屋は、高校時代のまま時間が止まったように何も変わっていなかった。懐かしい学習机に腰掛け、当時を思い出してしみじみしていると――ハルトは突如、重大な事実に気づいて頭を抱えた。
慌てて飛び出してきたせいで、仕事に必須のノートパソコンを忘れてきてしまったのだ。おまけに着替えの予備すらカバンに入っていない。
「あ、後藤。今、大丈夫か?」
すぐに電話に出た後藤は、受話器の向こうで心底心配そうな声をあげた。
『お袋さん、大丈夫だったか!?』
「ああ、足首の骨折だけど、数日後には退院できるって。ただ、親父が出張でいないから、しばらくこっちに残りそうなんだ。それで本当に悪いんだけど……慌てて出てきたから色々忘れちゃってさ。リストを送るから、俺の部屋から荷物をまとめて送ってくれないか?」
『おう、そんなことかよ。お袋さんが無事なら何よりだ。任せとけ、すぐに手配するわ』
「ありがとう、助かるよ」
ひとまず、明日以降の着替えだけでも調達しようと、ハルトは街へ買い物に出かけた。
必要なものを買い揃えて実家に戻ると、リビングには少し疲れた顔をした父親が帰宅していた。
「ハルト、急に呼び出して悪かったな。お前も忙しい時期だろうに……どうしても外せない出張と重なってしまってね」
「ううん、大丈夫だよ父さん。任せられる優秀なスタッフがいるから、心配しないで。それより、久しぶりに二人で夕食でも食べに行かない?」
「そうだな。そうしよう」
久しぶりに差し向かいで取る夕食の席で、ハルトは岡山での暮らしやトア・コーポレーションでの事業のことを、父親は仕事のことを、お互いに語りあったのだった。
次の日の朝、父親は「留守を頼むぞ」と言い残し、予定通り海外出張へと旅立っていった。
次の日。
ハルトが病室で母親の退院の手続きについて話していると、コンコン、と控えめにドアをノックする音が響いた。
「はい、どうぞ」
ハルトが振り返ると、そこに立っていた人物の姿に、思わず目を丸くした。
「えっ……光ちゃん!? どうしてここに……!?」
「夏休みだし、兄キから聞いてすぐ必要なものらしいから私が直接持ってきたの」
小さく息を弾ませている光を見て、ベッドの上の陽子が目を輝かせた。
「あら、ハルト。どなたかいらしたの?」
緊張で顔を少し上気させた光が、一歩前に出て丁寧に頭を下げる。
「初めまして。後藤仁の妹の光と申します。おばさま、これ、良かったらどうぞ……」
光が恥ずかしそうに差し出したのは、上品な陶器で作られた小さな花カゴだった。陽子はそれを両手で受け取り、パッと顔を綻ばせる。
「まぁ、なんて可愛らしいのかしら! ありがとう、光さん。」
光は、ニコリと会釈する。
その時、白衣を着た看護師が部屋に入ってきた。
「天照さん、お待たせしました。先生から正式に退院の許可が出ましたよ。どうされますか? ご希望なら、今日にでも退院していただけますよ」
「あら! そうなのね。ハルト、さっそく頼んでも大丈夫かしら? ……そうだわ、光ちゃん、せっかく東京まで来てくれたんだもの。今日は我が家に泊まっていってね」
「えっ、あ、はい! ご迷惑でなければ是非」
(っ……!? ひ、光ちゃんが俺の実家に泊まる……!?)
ハルトは心臓が爆発しそうなほど狼狽したが、母親の決定に口を挟む余地はなかった。
その日の夜。天照家のダイニングテーブルには、湯気を立てる美味しそうな夕食がズラリと並んでいた。それを囲む、ハルト、母親、そして光の三人。
光は頭が良く明るい女の子というイメージだったが、さすが後藤の妹だけあって、気配りの細やかさと家事能力の高さに驚くばかりだった。
実家に着くなり、まずは足首に負担がかからないよう母親をソファへ優しく誘導し、汗をかいて気持ち悪いだろうと「一緒にお風呂に行きましょう」と声をかけたのだ。
男のハルトでは決して立ち入れない浴室に入り、光は手際よく母親のシャワーを手伝い、髪を丁寧に洗い、背中を流してくれた。ハルトはただただ、感謝するしかなかった。その後、驚くべき短時間でこれほど見事な夕食を作り上げてしまったのだから、脱帽するほかない。
「光ちゃん、お風呂でのギブスカバーの仕方、すごく手慣れてるなと思ったら……医大で勉強されているのね」
「いえ、そんな……まだまだ修行中の身ですから」
感心しきりの陽子に、光は照れたように微笑む。
「お料理も手際がよくて、本当に感心しちゃったわ。光ちゃんみたいなお嬢さんがお嫁さんに来てくれたら、男の人は一生幸せよねぇ。――ねぇ、ハルト?」
「はえっ!? ゲホッ……!」
(な、なんで急に俺に振るんだよ、母さん!?)
ハルトは一瞬で耳まで真っ赤になり、慌てて視線を下に落とした。
「……そ、そうだね。すごく、美味しいよ」
蚊の鳴くような声で言いながら、目の前の煮物を口に運ぶ。
母親の陽子は、そんな二人の様子をすべて察したように、イタズラっぽく目を細めて箸を置いた。
「ふふ、ご馳走様。ちょっと今日は動き回って疲れちゃったから、私はお先に部屋に行くわね。……ハルト、洗い物はヨロシクね?」
「あ、ああ。わかったよ、ゆっくり休んで」
光が「お気をつけて」と母親に杖を渡し、部屋の入り口まで優しく付き添う。
一人リビングに残されたハルトは、パタパタと顔をあおぎながら、食器をキッチンへ片付けて洗い物を始めた。東京まで足を運んでくれた光に感謝の気持ちを込めて、食後のコーヒーを丁寧に淹れる。
リビングに戻ってきた光が、ふんわりと漂う香りに目を輝かせた。
「わぁ、良い香り……」
「光ちゃん、コーヒー淹れたんだけど、飲む?」
「飲む〜っ!」
光は満面の笑みでうなずき、二人はテーブルに向かい合って座った。
「ハルト兄のお母様って、本当に素敵ね。きっとご両親、すごく仲が良いんでしょ?」
「そうだね。小中学校の頃は、親父の転勤が多くてさ。その度に母さんも俺も、みんなで一緒に引っ越してたんだ」
光は驚いたように目を見張る。
「えっ、単身赴任じゃなかったの?」
「うん。いつも一緒。子供の俺から見ても、ちょっとごちそうさまって言いたくなるくらい、今でもラブラブな夫婦だと思うよ」
「ふぅん……そうなんだ。素敵ね」
ハルトは温かいカップを両手で包み込みながら、真っ直ぐに光の目を見つめた。
「光ちゃん。今日は、本当にありがとう。母さんのお風呂まで入れてくれて……俺じゃ絶対に出来なかったから。本当に助かった」
「ううん、多分男手だけじゃ困るだろうなと思ったから‥ハル兄の役に立てて、良かった」
少しはにかみながらそう言う光の横顔が、ハルトにはたまらなく愛おしく思えた。
次の日、実家に大きな荷物が届いた。開けてみると、最新の折りたたみ式車椅子が入っていた。どうやらクリスが気を利かせて、送ってくれたらしい。
「まぁ! ハルトの会社の方が? ありがたいことねぇ」
母親が嬉しそうに声をあげる中、光がハルトの顔を見上げた。
「おばさま、せっかくだから少しお散歩に行きませんか?」
「あら、良いの? 外の空気を吸いたいわね」
「じゃあ、俺が押すよ。一緒に行こう」
ハルトが母親の車椅子を押し、光がその隣を歩く。東京の懐かしい並木道をのんびりと歩いていると、前方から見覚えのある華やかな女性が歩いてくるのが見えた。
「あ! ハルト先輩!? お久しぶりです!」
「あ……ルミか! 久しぶりだな」
声をかけてきたのは、ハルトの高校時代のバレー部でマネージャーをしていた後輩の近藤ルミだった。現役時代、部員たちと何度かハルトの実家に遊びに来たこともある顔馴染みだ。
ルミは学生時代から校内のマドンナ的な存在だったが、大人になった今はさらに美しく、洗練された都会的なファッションに身を包んで輝いていた。
その隣で、Tシャツにジーンズというラフな格好の光は、自分とは似ても似つかない大人の魅力に溢れたルミの姿を見て、無意識のうちに気後れし、すっと一歩後ろに引いてしまう。
「おばさま、お怪我ですか? 大変ですね」
「そうなのよ、ルミちゃん。まぁ、しばらく見ないうちにすっかり立派な大人の女性になっちゃって」
「ふふ、ありがとうございます。」
ルミの視線が光に向かう。ハルトはすぐに二人の間に立った。
「あ、ルミ。こちら、俺の親友の妹の光ちゃん。医大生で、今、母さんの身の回りの世話を手伝ってくれてるんだ」
ルミは、洗練された笑みを浮かべ、光へ手を差し伸べた。
「私は、高校時代にハルト先輩と同じバレー部でマネージャーをしていた近藤ルミです。先輩、当時はキャプテンで、大活躍してたのよ。よろしくね」
「あ……こちらこそ、よろしくお願いします」
光は緊張しながらその手を握り返した。ルミはその後、バッグから自分の名刺を出しサラサラと何かを書くとハルトのポケットへ滑り込ませた。
「先輩、ではまた」
ルミは意味深なウィンクを残し、風のように去っていった。
それを見送った光が、ぽつりと小さな声で呟く。
「……綺麗な方ですね」
「ん? ああ、高校の頃からマドンナ的な存在だったからな」
その後、光は一言も喋らなくなり、静かにハルトの後ろを歩いた。
実家へと帰宅し、母親のシャワーの世話を終えた光は、夕食の準備をしようとキッチンへ向かった。その途中、廊下の床に先ほどのルミの名刺が落ちているのに気づく。
拾い上げて裏返すと、そこには綺麗な文字で『連絡して』というメッセージと、個人の携帯番号が書かれていた。
胸の奥がチクリと痛むのを堪えながら、光はリビングにいたハルトにそれをそっと差し出した。
「ハルト兄‥これ、落ちてたよ」
「あ、これね。ありがとう」
ハルトはキョトンとした顔でそれを受け取ると、全く躊躇することなく、キッチンのゴミ箱へそのまま「ポイッ」と投げ捨てた。
「え……っ!?」
光は驚いて声をあげた。
「どうして……捨てるの? あんなに綺麗な人だし、高校時代のマドンナだったんでしょ……?」
ハルトは今度こそ不思議そうな顔をして、光の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「だって、連絡する必要がないから。……光ちゃんだって、トアのデータで、俺たちの『未来』を知ってるでしょ?」
「あ……」
「それに、俺は……隣にいてくれるなら、ルミじゃなくて、光ちゃんがいい」
ハルトは言ううちに自分の言葉の重さに気づいたのか、急に顔を真っ赤にして下を向いた。
「……本当に? 」
光の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙があふれ出す。
「ああ、本当だ。俺は光ちゃんと、これからずっと一緒にいたい」
その時――廊下から「コツっ」という聞き覚えのある杖の音が響いた。
「あらあら! もしかしてハルト、あなた今まで光ちゃんにちゃんと告白もしてなかったの?」
ドアの陰から、呆れたような顔をした母親の陽子が顔を覗かせていた。
「か、母さんっ!! いつからそこに!?」
「ったく、情けないわね。キチンと『好きだ』って言葉にしなきゃダメじゃない。光ちゃんはこんなに可愛いんだから、もたもたしてたら他の誰かに取られちゃうわよ?」
「うっ……」と言葉に詰まるハルトと、顔を真っ赤にして俯く光。母親の愛のある説得力に、二人はただただ照れるしかなかった。
その日の夜、ハルトは母親の部屋へと呼び出された。
「何、母さん?」
「ハルト、これをあなたに渡しておくわ」
母親が差し出してきたのは、ベロア生地の小さな指輪ケースだった。ハルトがそっと蓋を開けると、部屋の明かりを反射して、驚くほど美しく大粒のダイヤモンドが眩い輝きを放った。
「これはね、天照家の嫁に代々受け継がれてきている大切な指輪なの。おばあちゃんから私へ、そして次は、あなたが光さんに渡しなさい。キチンとプロポーズするのよ」
「……ありがとう、母さん。キチンとプロポーズするから安心して」
ハルトは指輪ケースを強く握りしめ、深くうなずいた。
それから数日後。岡山から伯母(陽子の姉)が東京へ駆けつけてくれたため、母親の看病をバトンタッチし、ハルトと光は二人で岡山へと帰ることになった。
岡山に到着し、ハルトが運転する車の助手席で、光は少し緊張した面持ちで窓の外を眺めていた。車が山道を登り、「結の郷」の美しい棚田が一望できる、いつもの高台の場所に停車する。
車を降りた二人の前に、夜の棚田の風景と少し湿った郷の風が流れてきた。
「光ちゃん」
ハルトは光の前に立ち、ポケットからあの指輪ケースを取り出して開いた。
月明かりに光るダイヤモンドは、まるで神聖な物に見える。
「ずっと、俺の隣にいてほしい。俺は君ほど好きになった女性は、いない。これから大変な事が何度もあるだろう。それでも君に対する気持ちは、変わらないって、この地に誓うよ。どうか結婚して下さい」
光は驚きに両手を口元に当て、その瞳にみるみるうちに涙を溜めていった。そして、何度も、何度も大きくうなずいた。
「はい……っ! 私も、ハル兄とずっと一緒にいたいです……!初恋だったから‥夢みたい」
ハルトは、ぎこちない動きで光を抱きしめ、優しく唇を合わせた。静寂に包まれた夜の棚田。二人の最高の瞬間に浸ろうとした、その時――。
「おめでとうハルト。これからは未来の為に子孫繁栄に励んで下さい」
少し機械音が入ったてんとう虫からトアの声が響いてきた。
「ぎゃ!!トア、やっぱり俺を監視してるのか?今後は、プライベートは監視禁止にしてくれよ」
ハルトが顔を真っ赤にして大声を上げるが、スピーカーの向こうのトアは悪びれる様子も無く、
「了解しました」
と淡々と告げると、パッと通信を切ってどこかへ飛んでいってしまった。
ハルトと光は、そのあまりにトアらしい空気の読めなさに一瞬呆気にとられ、次の瞬間、お互いに顔を見合わせてゲラゲラと笑い出した。二人の楽しげな笑い声が、夜の棚田の隅々まで心地よく響き渡る。
二人の結婚は、光が医大を無事に卒業し、医師国家試験に合格してからという約束になった。けれど、二人の心は、この広大な結の郷の空の下で、誰よりも固く結ばれたのだった。
(第24章へ続く)




