第18章 日本の風景
昨年の夏に光が訪れてから、8ヶ月が過ぎた。光は現在、岡山大学の医学部で学んでいる。
結の郷では、源さんの兄弟子たちや賛同してくれた宮大工軍団が、オフの時間を使って神業のごとき腕を振るってくれていた。そのおかげで、敷地内は一気に懐かしい日本の風景へと生まれ変わっていく。
職人たちの住居は、里山の中に建てられた、藁葺き屋根の古民家風の建物だった。
奥の低い山には、見事な石積みの棚田が造られていた。この山は水が地下に抜けてしまうカルスト地形とは異なり、適度に水を蓄えてくれる豊かな土壌を持っていた。ハルトたちはこの山の斜面を活かし、日本の伝統的な知恵と職人の技術を結集させて、新たな米作りの拠点を切り拓いたのである。
職人たちの住居のすぐ後ろに迫る山の斜面へ水を引くため、ハルトたちは川のはるか上流に小さな堰を設けた。そこから山の等高線に沿って、源さんたち大工チームが、気が遠くなるほど精巧な石積みの水路を延々と切り拓いていったのである。
川沿いの平地では巨大な水車が職人街の動力として勢いよく回る中、山の上流から引かれた生きた水は、棚田の最上段へと自然の傾斜でサラサラと心地よい音を立てて注ぎ込まれていく。そして一枚一枚の田んぼを潤しながら、ゆっくりと水鏡の段を降っていく仕組みだ。
春の陽気の中、水を湛えた棚田は周囲の緑を美しく映し出し、職人街の背景に息をのむような美しい日本の原風景を創り出していた。
「源さん……!! 本当に凄いです」
ハルトは、この景色に深く感動し、目に涙を浮かべていた。
「初めて見る景色のはずなのに、どうしてこんなに懐かしく感じるんだろうな」
隣に立つ後藤も、静かに目を潤ませている。
クリスはといえば、先ほどからスマホで熱心に写真を撮りまくっていた。
「クリス、おめえ宣伝用の写真でも撮りょ
んか?」
源が声をかけると、クリスは愛おしそうに画面を見つめたまま答えた。
「祖母に送ってるんです。この風景を、どうしても見せてあげたくて」
マイケルの甥であるクリス。父が、日本の血が流れる彼にとっては、この風景には魂を揺さぶる何かがあるのだろう。
4人は、少しの誇らしさを胸に、この美しい景色を何としても守っていきたいと心に深く刻むのだった。
この一枚の美しい絵画のような場所にある住処は、すべてトア・コーポレーション・ジャパンが用意し、職人たちに無償で貸し出すことにした。もちろん、全員に十分な額の給料を渡し、物作りに専念してもらっている。
こちらの住居スペースには、とりあえず普通に現代のインフラを通しているが、景観を損なわないよう、電線はすべて地下に埋設することにした。いずれ徐々に、全て自然に還る物に変えていく事になる。
この場所は、景色として遠くから眺めるだけで、一般の入場者は立ち入れない聖域となる。
現在、源さんたちが急ピッチで完成させてくれた鍛冶工房、ガラス工房、瓦工房、漆塗り工房では、すでに職人たちがその腕を存分に振るっていた。
特にソーラーパネルは、世界中の仲間たちから注文が入り、工房は連日フル稼働だった。いずれは各国でも自給生産できるようにしなければならない。結の郷が完成した暁には、彼らをここに招いて技の伝授を行う必要があるだろう。
さらに、ひんやりとした鍾乳洞の中では、実験的に醤油、味噌、酒、チーズなどの仕込みも始まっていた。
トアが選び、クリスがスカウトしてきた職人たちは、誰もが実に働き者で、自分の仕事に強い誇りを持った人々だった。人間性も申し分なく、他の住人たちとも良好な関係を築いているようで、ハルトは心底安堵していた。
全国から移住してきてくれた彼らが、何不自由なく暮らし、自らの仕事に没頭できる環境を作りたい――ハルトは強くそう願っていた。
しかし、彼らはまだ、この世界の「未来」を知らない。
その過酷な真実を、いつ知らせれば良いのだろうか。ハルトの胸には、重い悩みがのしかかっていた。
トア・コーポレーション・ジャパンの会議室。ハルトは後藤とクリスを伴い、アメリカにいるトアをモニターに呼び出していた。
画面の向こうには、何一つ変わらないトアの姿が映し出される。
「ハルト、順調に進んでいるようですね。今日はどのようなご用件ですか?」
ハルトは少し視線を落とし、意を決したように切り出した。
「工房が完成した職人たちから順番に移住してもらっているんだが……彼らは未来の危機を知らない。みんな、純粋に頼まれた仕事をしてくれているんだ。いつ本当の事実を話すべきか、悩んでいる」
すると、トアは淡々とした口調で
「ハルト。源さんが呼び寄せた宮大工の方々以外の人間には、すでに『夢』という形で、未来の断片を見せてあります」
「え……?」
「そうなのか!?」
ハルトと後藤が思わず声を上げて驚く中、クリスだけがすべてを察したように呟いた。
「そうでしたか。それで納得がいきました」
ハルトは弾かれたようにクリスに詰め寄る。
「どういうことだ、クリス!?」
クリスはハルトをなだめるように、その肩を優しくポンと叩いた。
「皆さん、初めて私の顔を見たとき、一瞬だけ妙に驚いた顔をされたんですよ。私はてっきり、自分がハーフだからかと思っていましたが‥」
モニターの向こうで、トアが静かに言葉を重ねる。
「その通りです。未来の光景を見せた後、その未来を変えようと奔走する人間たちの中に、あなた方の姿も加えておきましたから」
ハルトは勢いよく立ち上がった。
「あ……! だから画面越しに面接をしたとき、彼らが妙に緊張しているように感じたのか! 夢に出てきた見知らぬ人間たちが、次々と目の前に現れたからだったんだな」
「ええ。彼らはハルトの依頼をこなすだけでなく、自ら進んで提案し、作った物もあったでしょう? 最初はただの夢のお告げ程度に思っていたのでしょうが、現実が重なるにつれ、今ではそれが確信に変わっているはずです」
ハルトは言葉を失い、微かに身体を震わせた。
「そうか……そういうことだったのか……」
「……しかし、それなら何故、誰もこちらに聞いてこないんだ?」
後藤が不思議そうに、ぽつりと呟く。
「仕事でしか関わりのない上司に向かって、『夢で人類滅亡の危機を見ました』などと大真面目に相談する大人がいると思いますか? あるいは――彼ら自身、今はまだ、その答えをあえて知りたくないのかもしれませんね」
「そうか。ならば、本当のことを明かすのは結の郷が完全に完成してからでも、遅くはないのかもしれないな」
「それが賢明だと思います」
「……ありがとう、トア」
「では、失礼します」
画面がふっと消え、静まり返った会議室で、全員が静かに俯いた。
これまでにハルトたちが下してきた、いくつもの選択。
過酷な環境に身を置きながらも、次世代へ命を繋いでいこうとする人間たち。そして、何も知らぬまま、穏やかで幸せな滅びの時を迎える大多数の人類。
残された人間が、果たして幸せなのかどうか。それは、自分たちが彼らに何を託せるかによって決まる。そして、本当に人類が生き残れるかどうかも、現時点では誰にも分からない。
ただ、自分達が信じた未来を進むしかないのだ。
(19章へ続く)




