第17章 青い春
今日もシャインマスカットの収穫をしていると、背後から突然
「ハル兄!!元気だった?」
と声がした。意外な人物の登場に、ハルトが驚く間もなく、その人物は彼の肩をポンと叩いた。
「おい! 実の兄より先にハル兄はないだろ?」
「え? 光ちゃん!? どうしたの?」
目を丸くするハルトに対し、光はニッコリと微笑みながらウインクしてみせた。
「来ちゃった〜♡」
光は後藤の妹だ。初めて会ったときはまだ中学生だったが、ずいぶんと大人っぽく成長している。
「ちょうどいい時間だし、お昼にしようか」
ハルトがそう提案すると、後藤はなにやら複雑な表情を浮かべていた。
家に戻ると、お婆ちゃんが冷たい素麺を出してくれた。
「……で、受験生がなんでこんなところに遊びに来てるんだ? 勉強は大丈夫なのか?」
後藤が、いかにも兄らしい険しい顔で問い詰める。
「ちょっと下見しに来ただけだよ」
「は?」
「私、岡山大学を受験するから」
「はぁ? 聞いてないぞ!」
「言ってないもん」
ハルトは、将来的に光もこの「結の郷」で暮らすことになるのなら、それも悪くないなと思いながら口を開いた。
「学部はどこにするの?」
「医学部」
「はあ!?」
後藤は完全に呆れ顔だ。しかし、光はすかさず言葉を続けた。
「だって、あの時お兄ちゃんたちが言ってたでしょ? 『将来、医者をどうするか』って」
「え?」
言われてみれば二年前、光に会ったときのことだ。今後自分たちは岡山に骨を埋める覚悟だと話した際、彼女にかなり泣かれた。いずれ光も一緒に暮らすことになるからと、簡易メタバースを体験させたときに、そんな将来の課題をぽろっと零した記憶がある。光は県内でもトップクラスの進学校に通っている。決して、ただの思いつきではないのだろう。
「私だって、お兄ちゃんたちの役に立ちたいの」
「ありがとう、光ちゃん」
ハルトは愛おしくなり、光の頭を優しく撫でた。
「ち、ちょっとハル兄! 私、もう子供じゃないってば!」
光が顔を赤くしてハルトの手を払いのける。
「あ、ごめん! そうだよな。どうしても中学生のときのイメージが強くてさ」
後藤は「やれやれ」といった様子で首を振っている。
「でもね、光ちゃん。僕たちは君がいてくれるだけで十分なんだよ。だから、あまり無理はしないでね」
ハルトが温かく語りかけると、光は一瞬、泣きそうな表情を浮かべた。しかし、すぐにそれを隠すように胸を張る。
「冗談じゃないわよ! 毎日八時間も勉強してきたんだから。その努力を簡単に捨てるわけないでしょ!」
そこへ、お婆ちゃんがシャインマスカットを運んできた。
「みんな仲がええねぇ。光ちゃん、お爺ちゃんのブドウを持ってきたが。今じゃこの兄さんらがしっかり世話してくれとるから、お食べられぇ」
ツヤツヤと輝く、よく冷えたシャインマスカット。光が一粒つまんで口に放り込む。
「う〜ん、美味しい!! すごく甘いね!」
嬉しそうに頬張る光の姿を見て、ハルトは
「やっぱり中学生のときと変わらない可愛らしさだな」
と、目を細めるのだった。
後藤の部屋にて
「……で、本当はハルトのために猛勉強したんだろ?」
図星を突かれた光は、ふいと下を向いた。
「……悪い?」
「お前の初恋の相手なんだろうけどさ、お前はハルトにとって『妹枠』だぞ」
「分かってるわよ。だから、ハル兄に変な虫がつかないように、こうして見張りに来たんじゃない」
後藤は深いため息をついた。
「女の執念って恐ろしいな……」
「そこは『愛の力』って言ってくれない?」
光が軽口を叩くと、後藤は一転して真面目な顔つきになった。
「はっきり言って、お前が外科医になってくれれば、心強いだろう。でも、医学部は生半可な気持ちじゃやっていけないぞ。俺たちも医者は探しているんだから、お前が無理に医学部に進む必要はないんだ」
光もまた、まっすぐ後藤の目を見つめ返した。
「私は、少しも後悔してないよ。お医者さんだって、人数はたくさんいた方がいいでしょ? やってみないと分からないけれど……私は、ハル兄の横に立ってる人間になりたいの」
後藤は驚いたように目を見開き、少しの沈黙のあと、優しい笑みを浮かべた。
「……じゃ、頑張りな」
そう言って、後藤は光の頭をぽんぽんと撫でる。
「だから! もう子供じゃないんだからね!」
光はそう言いながらも、どこか嬉しそうに後藤の手を払った。
一方、そのころハルトは、お婆ちゃんに「二人に持って行ってあげて」と頼まれたコーヒーとお菓子をトレーに乗せ、後藤の部屋の前に立っていた。ドア越しに二人の会話がほぼすべて聞こえてしまい、彼はトレイを持ったまま、顔を真っ赤にさせて立ち尽くすのだった。
翌朝
「おはようございます」
いつも通りの完璧なスーツ姿で、クリスが現れた。
ハルトが光を連れて玄関へ向かう。
「おはようございます、社長」
「あ、クリス。後藤の妹の光ちゃんだよ。今日はよろしくね」
「初めまして。私、トア・コーポレーション・ジャパンで社長秘書を務めております、クリス・塚野と申します。本日は岡山大学医学部の見学手配が整いましたので、私がご案内させていただきます」
「後藤光です。よろしくお願いします!」
二人は車に乗り込み、まずは岡山大学医学部へ向かった。見学の帰りには、トア・コーポレーション・ジャパンのオフィスも回る予定になっている。
「じゃあ、俺たちは今日も収穫があるから、妹をよろしく頼みます」
後藤もクリスに頭を下げた。
「はい。すべての行程が終わりましたら、またこちらまでお送りいたします」
クリスはスマートに一礼し、二人は車で出発していった。
その様子を見ていたお婆ちゃんは、嬉しそうに声を弾ませる。
「今日はクリス君も来るんなら、張り切っていなり寿司作らにゃおえんねぇ」
お婆ちゃんはすっかりウキウキしている。クリスのハイスペックで洗練された佇まいは、この郷の女性たちの間で大人気なのだ。
「はぁ〜……」
ハルトと後藤は、思わず同時に小さなため息をついた。
「じゃ、行ってきます」
二人は苦笑いを交わしながら、果樹園へと向かった。
果樹園では、お爺ちゃんの熱心な指導のもとで作業が続き、あっという間に夕方を迎えた。
家に帰ると、見覚えのある車が停まっており、茶の間からは光の楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてくる。
「お帰りなさい、ハル兄! ……あ、ついでにお兄ちゃんも」
後藤は「やれやれ」といった顔で訊ねる。
「……で、どうだったんだ?」
「素晴らしい一日だったよ! 大学の雰囲気もすごく良かったし、ハル兄の伯母様にもお会いできたの。それにクリスさんにもすごく親切にしてもらって、本当に嬉しかった! クリスさんってエスコートが完璧だし、スマートでハイスペックで……ハル兄、あんなに有能な秘書さんがいてくれて良かったね!」
クリスが褒められるのは、社長であるハルトにとっても誇らしいはずだった。それなのに、なぜかハルトの胸の奥が、チクッと小さく痛んだ。
「それは……良かったね、光ちゃん」
いつものハルトとは明らかに違う、どこかぎこちない空気を、クリスと後藤は見逃さなかった。
「でね、ハル兄の伯母様が『もし大学に合格したら、うちに一緒に住まない?』って言ってくださったの!」
その言葉に、ハルトはハッと目を見開いた。
(え? でも、あの敷地内にはクリスも住んでるよな……?)
ハルトが動揺していると、クリスがすぐさま冷静に口を開いた。
「光さん、岡山大学には非常に環境の整った女子寮がございます。セキュリティの面を考えても、そちらを選択されるのが賢明かと思います。入寮の手続きに関しては、私が責任を持って執り行いますのでご安心ください」
後藤も慌てて妹に釘を刺す。
「そうだぞ。万が一何かあったら、実家の親父たちにも顔向け出来ない。お前は大人しく女子寮に行け。それが嫌なら、ここから通うんだな」
「わ、分かったわよ。まだ受かるかどうかも分からないけれど……もし受かったら、女子寮に入るわ」
光は少し膨れっ面をしながらも納得した。
ハルトは、二人の言葉に思わずホッとしている自分に気がついた。
(もしかして……僕も光ちゃんのことが好きなのかな? だとしたら、後藤はどう思うんだろう……)
押し寄せる複雑な感情に、ハルトは静かに戸惑うのだった。
次の春、光は見事に岡山大学医学部に合格した。
...そして、かなりの難関と言われる女子寮への入寮も、クリスの鮮やかな手腕によって無事に決まったのだった。
(18章へ続く)




