Act1 図書館の邂逅 一年遅れの境界線 2
瑞穂学園の図書室。その最奥の窓側の席は、二年生の玉木 航聖にとって、下界のノイズを遮断し、論理の海に沈むための唯一のシェルターだ。
そこに、静かだが重苦しい足音が、また近づいてくる。
「……お疲れ様です、玉木先輩。今日もまた、こんな隅っこで……相変わらずご熱心なことだ」
聞き覚えのある声。一年の佐藤 研斗だ。彼は最近、加納家の観測者として働き始めた期待の新星であり、何とか手柄を立てるんだとやる気満々の態度で、航聖の向かいに音を立てずに腰を下ろした。
「……」
航聖は視線を上げない。学園指定の端末には、退屈な微積分の演習問題がずらりと並んでいる。だが、その描画レイヤーの裏側では、研斗の検閲を掻い潜り、「姫神会」の基盤システムを盗み見るための逆演算が、静かに火花を散らしていた。
「先輩、あんまり無理をしないで下さいよ。本家(加納家)からも言われているんですよ。『あいつはもう、一度焼き切れた演算機なのだから、これ以上負担をかけすぎると完全に壊れる』と。壊さないように管理しろとは言われてますが……僕は心配なんですよ。先輩がまた、「廃人」みたいになったら悲しいじゃないですか」
研斗は、まるで親身な後輩を演じるように笑う。しかし、その言葉の一つ一つには、明らかに航聖を「欠陥品」と決めつけ、自分の方が「上位の管理者」であることを刻み込むような、粘りつくような嫌らしさ満ちていた。研斗は手元のデバイスで航聖の端末画面をミラーリングする。覗き込むと、怒鳴られそうな航聖の嫌そうな顔だ。
「……へえ、まだこのレベルの問題で躓いているんですか?……先輩の脳も随分と鈍って……ああ、そんな顔しないで下さいよ。僕が上手く本家に報告しておきますから。『彼は大人しく、無害な計算を続けています』とね」
航聖の指が、微かに強張る。研斗は、航聖が「かつての天才」であることを知っている。だからこそ、そのプライドを丁寧に、丁寧に剥ぎ取っていくことに、歪んだ快感を覚えていた。
その時、書架の影から、一人の生徒が音もなく現れた。
一年生、姫神 薫。彼女がその場に立った瞬間、図書室の空気の「重さ」が変わった。研斗の放っていた卑屈な圧迫感が、一瞬で凍り付き、霧散する。
「……っ、姫神さん⁈」
研斗が弾かれたように立ち上がる。彼の顔には、隠しようのない思慕と、それ以上に深い「畏怖」が浮かんだ。薫は研斗を見ることなく、ただ航聖の座るテーブルへと歩み寄る。
「佐藤君……そこ、退いて下さる?」
拒絶ですらない、ただの事実の宣告。その一言に、研斗は息を呑んだ。薫の瞳には、研斗という存在に対する軽蔑すら宿っていない。ただ「そこにいないもの」として扱われている絶望。研斗は、自分が薫にとって、学園の備品と同程度の価値しかないことをさとり、顔を青く染めた。
「あ、いや、僕は……彼の健康管理を……」
「貴方には関係のないことよ。邪魔だからあっちへ行って」
薫の静かな、しかし抗いようのない拒絶だった。研斗は、自分が薫の視界に一秒たりとも入っていないことに、胸を締め付けられるような屈辱を感じながらも、その場を去るしかなかった。彼は薫に嫌われることをなにより恐れていた。
研斗の足音が遠ざかり、図書室に再び静寂が訪れる。
航聖は、ようやく顔を上げた。
「……ふっ……姫神 薫様ですか。姫神会の総帥が溺愛する『最高傑作』が、僕に何の用ですか?」
「あら。貴方こそ、加納家が持て余した挙句に処分に困っている『最高精度の演算機』でしょう?」
さて、ここから物語の幕上けが開始する。
龍輝が研斗の事を「キモい、ウザい」と航聖に報告してましたね?
名刺交換の場面がピリついています(笑)




