Act1 図書室の邂逅 一年遅れの境界線 1
瑞穂学園高等部に入学して数日。
放課後の図書室は、新入生たちの浮足立った空気から隔絶された、冷ややかな知性の保管庫だった。
一年の佐藤 研斗は隣を歩く姫神 薫の背中を必死で追いながら、窓際の席を指差して声を潜めた。
「……姫神さん、あそこに座っているのが、二年の玉木 航聖先輩です。噂では一年遅れ……とか。……ええと、実年齢は僕たちよりも二つ上で、本来ならば高校三年生のはずなんですけどね。……どういうわけか学園側は、彼の出席単位のみで進級を認めているらしいんですよ」
研斗は薫に纏わりついて、自分の調べ上げた結果を得意げに報告した。しかし、薫は研斗を無視するようにその足を止めず、真っ直ぐに航聖が陣取るテーブルへと向かった。
航聖の眼鏡の奥で、無機質な瞳がノートを這う。彼のペン先は、まるで精密機械のように一定の速度で紙の上を滑り、膨大な数式の羅列を刻み続けていた。
「……。……拘束条件$g(x,y)=0$における関数$f(x,y)$の極値。ラグランジュの未定乗数法による多次元への拡張……。変数は$n$個。……あと三工程で、収束する」
航聖の脳内では、数万という数字と記号が、三次元の格子を組み替えるように激しく躍動していた。一年前、心身を摩耗させた原因である「解けない呪縛」を、彼は今まさに、自らの論理だけで解体しようとしていた。
「……玉木先輩、まだそんな古臭い手法で格闘しているんですか」
その静寂に、突然不純物が混じった。一年の佐藤 研斗が、自信に満ちた笑みを浮かべて航聖のノートを覗き込んだ。
航聖のペンが、ピタリと止まる。眼鏡の奥に鋭く、凍てつくような不快感が宿った。
「……誰だ?君は」
地を這うような低い声。それは問いかけというより、『今すぐ僕の視界から消えろ』という警告に近い。
「あ、失礼しました。僕は一年の佐藤 研斗です。……先輩、その計算、僕の家の最新のワークステーションなら一瞬ですよ」
「……」
「『特例』の貴方には、もっとスマートな道具が必要なんじゃないでしょうか?」
研斗は航聖の露わにした不快感に気づくどころか、親切を装ってさらにノートに手をかけようとした。航聖にとって、この無知な侵入者が発する言葉は、全てが演算を乱す致命的な『ノイズ』でしかなかったのだ。
「……失せろ。僕の思考を汚すな」
「えっ?……せ、先輩?僕は良かれと思って……」
研斗が動揺し、場の空気がさらに不快なノイズで満たされようとしたその瞬間だった。
「__どいて。貴方のその薄っぺらな親切心は、彼に対する侮辱にしかならないわ」
薫は研斗を視界に入れることさえせずに、航聖の前に歩み寄った。彼女は研斗のように不躾にノートを覗き込むのではなく、彼のノートを見るなり優しく微笑んだ。
「あら……ラグランジュの未定乗数法。……緻密で重厚な、美しい構築ね。……けれど貴方はこの拘束条件に、自分を閉じ込めようとしているんじゃないかしら」
薫は航聖のペンを、さも当たり前のように奪い取ると、彼が積み上げた数式の上にスッと一本の「補助線」を引いた。
「なっ……何をするんだ、君は……っ⁈」
航聖が抗議しようとした言葉は、ノートを見た瞬間に凍り付いた。
その一本の線。
それによって、複雑に絡み合っていた多次元の変数が、幾何学的な対称性によって次々と相殺されていく。ラグランジュ法という巨大な重機を使わずとも、ただ「視点を変える」だけで、答えは最初からそこにあったかのように浮かび上がった。
「……。……条件式を……位相幾何学的に反転させたのか……⁈……バカな、こんな解法は教科書のどこにも……」
航聖は、自分のノートを凝視したまま動けなくなった。
一年前、心身を壊して以来、彼がずっと探し求めていた「世界の解き方」が、今、目の前の一年生の手によって示されたのだ。
薫は、呆然と立ち尽くす研斗を背に、航聖ににっこりと微笑んだ。
「……君は……?」
それは、航聖が「不安が残る独りの静寂を」捨てて、薫という「理解者」と共に歩みだす、運命の再起動だった。
初っ端から、難しい。どうしよう(笑)




