悪夢
「――――ッ!」
真っ暗な部屋の中で私の意識は急浮上した。
恐怖に支配された頭ではここがどこなのかわからなくてパニックになる。
体がいうことを聞かない。息が吸えない。強張った指の関節をピクリと動かすことさえできない。
ハッハッ……、と懸命に短く息を吸う。拡大した瞳孔。暗闇の視界にチカチカと火花が舞って、全身から冷や汗がドッと噴き出す。
怖い怖いこわい――ッ!
「っ……!」
――……カーテンの向こうで雲に隠れていた月が顔を出す。
細い月光で部屋の中が微かに明るくなったことで、私は暗闇の監獄から僅かに抜け出せた。
涙と鼻水で詰まった鼻をすすり、喉の詰まりを飲み込む。それで呼吸が少ししやすくなった。
「……」
未だ金縛りのようにガチガチに固まった体はいうことを聞かない。眼球を動かして定まらない焦点で周囲を見回す。
ここは――――……、私の部屋だ。
そう。
ここは、わたしのへや。
あの納屋でも、奴隷商の檻でもない。
私の、部屋。
私の部屋。
――――――ほんとうに?
「っ……」
恐ろしい考えが頭から離れない。
これは私が生んだ空想の中なのかもしれない。
夢の中で見るつかの間の夢。
苦しい現実から逃げ出すための空想の逃げ場。
だから本当に目を覚ましたら、今度こそまた。
猿轡と両手の縄の感覚が蘇る。暗闇の中から伸びる男の手を思い出す。私に馬乗りになった男の体重を思い出す。床に私を押し付けて、無理矢理体を暴いて――!
……いいや違う違う違うちがうッ!
ここはあの納屋なんかじゃないッ!
「く、ふっ……」
詰まっていた喉が開いて、思考が少しマシになる。
おそるおそると周囲を偵察して……。やはりここは私の部屋なのだと確認して、自分に言い聞かせる。
大丈夫。ここは、ここは、私の部屋。
あの納屋でも、檻でもない。
「……は……ぅ」
強張った体を無理矢理動かして、体に絡み付いた毛布ごと床へ落ちる。
変な体勢でベッドから落ちたはずなのに痛みが鈍くて、やはりここは夢の中なのではと再び不安が込み上げてしまう。
大丈夫、大丈夫、と。
何度も自分に言い聞かせながら、不自由な体を無理矢理動かして床を這う。
「……ぅ」
たどり着いたドアノブに手を掛けて……、このドアの向こうこそが夢の終わりなのではと恐ろしい考えが込み上げてしまう。
震える手で握ったドアノブを何度か空回りさせながら、ドアを押し開ける。
……窓からの月光で浮かび上がったドアの向こうは、見慣れた二階の廊下。だから、大丈夫。
体の震えと強張りで立ち上がれない。だから私は間抜けな四つん這いで廊下を這う。
長い時間を掛けて、ずり、ずり、と移動する。
一階への階段は降りずに、私の部屋の反対側である廊下の先を目指す。
少しでも気を抜けば意識と現実を手放してしまいそうで、何度も何度も自分に言い聞かせる。
大丈夫、大丈夫……っ。
バンッ、と乱暴にドアが開く音がした。
「――シア!」
焦った声が聞こえたのとほぼ同時に照明が点いて周囲が明るくなった。そして大股で足早に近寄ってくる足音がする。
冷えきった体が温かな手に包まれた。
「シア、いい子だ。もう大丈夫。よく頑張ったな」
「ぁ……ッ」
聞き慣れた声に涙が溢れて視界が歪む。
私を抱き上げた温かな体に実感が戻ってくる。
背中をトン、トン……、とあやされて、呼吸の自由が徐々に戻ってくる。
「シア、俺の名前がわかるな?」
問われて、不安と安心の狭間でぎこちなく頷く。
「テぉ……ぁぐ……っ」
名前を声に出したいのに、喉に支えて出てこない。
再びパニックになりかけた私を抱きしめる手に力が入った。
「大丈夫。大丈夫だ、シア。シアは俺の名前を知っているんだ。俺がシアに名乗ったのはシアがこの家へ来た日が初めてなんだよ。それ以前のシアは俺の名前を知らなかった。だが今は違う。大丈夫。シアはもう悪夢の中にはいない。シアはここにいるんだ」
「……ぁ……。テ……テオ、さ、ま……」
涙でぐにゃぐにゃな視界の中で、私の声にテオ様が微笑んだのがわかって……。それだけで体の緊張が緩んできた。
不安定になった頭がテオ様の胸の中にポスッと寄り掛かると、テオ様は鼻水でぐちゃぐちゃな私の鼻をタオルで優しく拭って、涙と鼻水で詰まっていた呼吸を助けてくれた。
呼吸が落ち着いてきて、不安感がどんどん和らいでいく。
「大丈夫だ。シアには俺がついている。俺はシアの味方だ。シアの家族だ。俺がシアを突き放すことは絶対にない。大丈夫。大丈夫」
大丈夫、大丈夫と繰り返す大好きな声。
それに合わせて背中をトントンされる心地よさ……。
「…………テオ、さま……」
目的もなく名前を呼んだけれど、テオ様は「うん」と優しく喉を鳴らすように応えてくれた。
「……テ、テオさま……」
「うん」
「テオさま……」
「うん」
「テオさまぁ……っ!」
「うん。シア、大丈夫。俺だよ。大丈夫だ、シア。大丈夫」
「ん……」
実感と安心感が欲しくてテオ様の胸元に目元を擦り付ける。
テオ様の寝間着に私の涙と鼻水がついてしまったけれど、テオ様は嫌な顔一つせずに頭をポンポンと撫でてくれた。
「シア、廊下は冷えるから移動しようか。俺がシアを抱き抱えて移動してもいいか?」
私の中にある男性に対する恐怖心を知っているから、テオ様はそう確認してくれた。
テオ様は怖くない。私の味方だ。
そうわかっている。
わかっている、けれど、それでも、体が勝手に震えてしまう――……。
「……ぃ」
ぎゅっと目を瞑ってコクコク頷きながら返事をしたけれど、声がちゃんと出なかった。
それでもテオ様は「わかった」と応えてくれて、しっかりと抱き抱えられて体が持ち上がる感覚がした。
テオ様は目を瞑ったままの私を抱き抱えて廊下を移動して……。やがて体がそっと下ろされて、動きが止まった。
うっすらと目を開けると……、そこはテオ様の部屋にあるソファだった。
優しい照明が点いている部屋の中は明るくて、ほのかに暖かい……。
「シアの部屋よりも俺の部屋の方が近かったからこっちへ来た。安心していいからな」
テオ様が私を畏縮させないように声掛けをしながら隣に座る。
おそるおそるとその顔を見上げて……、私を心配するテオ様の顔が見えて、体の緊張が解けていった。
移動中に止まりかけていた息を、はぁ……、と吐き出す。
「シア、水は飲めそうか?」
そう言ったテオ様は魔術を使って、キャビネットからコップを出して水を注いでくれた。
手が小刻みに震えてうまく力が入らなくて、テオ様に支えられながらコップの水を一口飲む。
水に溶け込んだテオ様の魔力が体と心にすぅっと入ってきて、……私はふぅと安堵の息を吐いた。
そして……、現状をじわじわと認識する。
今はたぶん、深夜。王都へのお出掛けで疲れて眠っていたテオ様を起こしてしまったに違いない。
そう予想してベッドに視線を向けると、跳ね退けたように乱れた毛布が見えた。……やっぱり、無理矢理起こしてしまったんだ。
「……テオ様……起こしてごめんなさい……っ」
謝罪の言葉と共にボロボロと溢れ出た涙をテオ様がそっと拭ってくれた。
「シアが謝ることは何もないよ。俺はシアの味方だから。俺を信じてくれ。な?」
頭をポンポンと優しく撫でられて、私は小さく頷いた。テオ様から渡されたタオルで涙を拭う。
ズズッと鼻水をすすると、鼻の奥がツンと痛くなった。
「テオ様……」
「さぁ、シア。もう少し水分を摂ろう。カラカラになっちゃうぞ?」
テオ様におどけた口調で勧められて、私は三口ほど水を飲んだ。
「……テオ様……」
「ん?」
譫言のように名前を繰り返して呼ぶ私に、テオ様は優しく相槌を打ってくれた。
テオ様はいつも私に優しくて、気遣ってくれて、私を安心させてくれる。
私の大好きな、テオ様……。
「――――……テオ様……、その……。ただ黙って、聞いてくれますか……?」
「……。ああ、わかった」
私の言葉にテオ様は一瞬悩んで口を挟みたそうな様子だったけれど、それでも私の要望を受け入れてくれた。
私はテオ様の裾をきゅっと握って……、震える吐息をこぼしながら口を開く。
「…………わ、私……。汚いんです……」
そう口にするだけで胸が苦しくて涙が滲んで。
それでも。
それでも言葉に出して、自分の中に溜め込まれた悪い何かを外へと吐き出したくて。
「……バルカのお屋敷の、お坊っちゃんが……、私を納屋に閉じ込めて……っ。そ、そこで……、私に、酷いことをしてっ……!」
「ッ……」
私のお願い通りに黙って独白を聞いているテオ様が、ギリッと奥歯を噛み締める音がした。
「私、そのまま納屋に閉じ込められて……っ。閉じ込められていた二日の間に、お坊っちゃんが奥様の大切な指輪を盗んでっ……。それを、私のせいにして……ッ!」
――すでに心身がボロボロの状態で納屋から解放された私に待ち受けていたのは、盗みの冤罪。
私じゃないと訴えても信じてもらえなくて。
二日間の不在の理由を激しく追求され叱られ叩かれて。
けれども理由なんてとても言えなくて。
私の味方は誰もいなくて。
……私はそのまま窃盗の犯罪奴隷にされて、奴隷商の仲介業者へと売り払われた。
そこからバルカからイザードの奴隷商までの旅路は過酷なものだった。
輸送用の馬車は粗悪で、劣悪で。私以外の奴隷からストレスの捌け口にされて。言葉と力の暴力を振るわれて。
怖くて。辛くて。絶望して。
自分が生きているのか死んでいるのかさえわからなくなって――。
「それで……、わ、私……。奴隷商からご主人様に買われたら……、し、死のうって……。そう、思って……ッ!」
「……っ」
そこまで言い終えると、ついに堪えきれないというようにテオ様が私をギュッと抱きしめた。
――テオ様は私の過去に何があったのかを知っているってことは、私にもわかっている。
テオ様からちゃんと説明されたことはなかったけれど、たぶん魔術で私の過去を見て、それで知ったんだと思う。
……ううん。
たとえそれがなかったとしても、テオ様は私がもう純潔じゃないってことは知っている。
イザードの奴隷商でテオ様が私を見つけた時に、テオ様は私の商品情報――私がすでにキズモノだって記載された紙を見てしまったのだから。
だからテオ様は知っているんだ。そうわかっている。
でも……っ!
「テオさま、ごめんなさいっ……。汚くて、死んで逃げようとした卑怯者で、ごめんなさいッ……!」
「……シア……」
胸のつかえを吐露して呼吸が定まらないでいると……、テオ様は気遣うような声色で私の名前を呼んで優しく背中を擦ってくれた。
「シアは決して汚くないし、卑怯者でもないよ。大丈夫。大丈夫だ」
「わ、私……、怖いんです……っ! 私なんかがこんなに幸せなはずがないんだって。こ、これは、夢なんじゃないかって。目が覚めたらまたあの納屋か檻にいるんじゃないかってッ……!」
これは前にも抱いた不安。
奴隷として売られて、テオに買われて、この家へと来て……。
テオ様が与えてくれた穏やかな日々に幸せを感じると同時に不安になって、毎晩のように悪夢にうなされて。
そうしてある晩に耐えきれずに部屋から出て、テオ様に泣きついて――。
それでテオ様が「俺は知っている」「シアの味方だ」って言ってくれて。不安を和らげる暗示も掛けてくれて。
あの日からこれまでずっと、こんなに酷い悪夢は見てなかったのに……っ!
「テオ様、テオ様……っ。怖いっ……、怖いよぉ……っ!」
「シア、今は夢じゃない。現実だ。シアが俺の名前を知っているのが何よりの証拠だ。大丈夫、シアには俺がついている。シアは俺の大事な家族なんだ。俺は絶対にシアを見捨てたりしない。大丈夫。大丈夫……」
テオ様にぎゅっとしがみつくと、テオ様も私をぎゅっと抱きしめ返してくれた。
テオ様に抱きしめられる感覚と、間近で感じるテオ様の体温と呼吸が、私を現実へと引き戻していく。
泣きすぎたせいかちょっと頭が痛いけれど、私の額に当てられたテオ様の大きな手が気持ちいい……。
しばらくそうしていて――……。ようやく私の気持ちは普段の私に近いところまで落ち着いた。
「テオ様……」
私を腕に抱いているテオ様が頼もしくて、優しくて。
ずっとこうしていたいだなんて自分勝手な気持ちになってしまうけれど……、テオ様の迷惑にはなりたくない。
そう思って身じろぎしたけれど、そんな私を逃すまいというようにテオ様は私を抱え直した。
「シア、このままで大丈夫だから。むしろ俺がこうしていたいんだ」
「……」
私が返事に困っていると、テオ様は私の背中を優しくントンと撫でた。
「何度でも言おう。シアは汚くなんかないし、卑怯者でもない。俺にとってシアの存在は眩しいほどに綺麗で輝いているんだよ。シアは頑張り屋さんで、とても繊細な優しい子で、俺の大事な大事な家族だ。シアが無理をする必要なんて微塵もない。今はただ何も考えずにゆっくり休もう。な?」
「…………はぃ……」
「ん、いい子だ」
テオ様の優しい声と背中トントンが気持ちよくて、私は促されるままに体の力を抜いてテオ様に身を預けた。
あったかい……。
「なぁ、シア……。今日のお出掛けは楽しめたか?」
「……はい。とても、とても楽しかったです……」
――――だからこそ、悔しくて、本当に悲しい。
楽しくて素敵な一日になるはずだったのに、その夜にあんな最悪な夢を見るだなんて……っ。
無意識に唇を噛みしめると、テオ様は私の頬を撫でて私の力を緩ませた。
「あぁまったく……、万事全てが理想どおりとはいかないもんだ。一日の締めくくりに辛い思いをしてしまって……、心が苦しいな」
「……はい」
「俺はシアが大切だ。だからシアには辛い思いをさせたくないし、できる限りいい思いだけをさせてやりたい。この夜の出来事のせいで楽しかった今日の記憶が悪いものとして残って欲しくない。
…………本当にごめんな、シア」
「え……?」
どうしてテオ様が謝るんだろう?
困惑しながらテオ様の顔を見上げると……、テオ様は私への罪悪感と自分への嫌悪感を必死に抑えようと顔を歪ませて唇を震わせていた。
こんなテオ様は見たことがない……。
「俺が不甲斐ないばかりに、シアを不安にさせて辛い独白をさせてしまった。俺は最低な奴だ」
「そ、そんなこと……っ」
私は反論しようとしたけれど、テオ様は静かに頭を振ってそれを制止した。
「俺はシアがとても可愛くて、大事なんだ。俺がシアを疎むことなんて絶対にない。俺は何があってもシアの味方だ。それだけは信じて欲しい」
「……はい。大好きです、テオ様」
テオ様の気持ちが嬉しくて思わずそう言うと、テオ様はふふっと笑って私の頭を優しく撫でてくれた。
「俺もシアが大好きだよ。可愛い可愛い俺のシア……。大丈夫。シアは俺が守る。何があってもシアの手を離したりしないから」
「ん……」
ああ、テオ様の言葉が嬉しい。
テオ様の「大好き」は恋愛感情抜きの言葉だとわかっているけれど、それでも本当に嬉しい……。
テオ様にあやされながらテオ様の腕の中で身を馴染ませていると、不安のない眠気がふわふわと私を包み始めた。
うとうとと微睡み、目を閉じる。
「シア、安心しておやすみ。俺がずっと傍にいるから」
「……テオさま……」
「何も心配はいらない。大丈夫だから、安心しておやすみ」
テオ様の優しい声に誘われて――……。私はふわふわと優しい眠りに落ちていった……。
――……安定した呼吸で寝入ったシアを起こさない力加減でトントンとあやしながら、俺は内心で自分を激しく責め立てる。
王都へ出掛けたこと自体はよかったと思う。俺と出掛けるのをシアは本当に楽しみにしていたし、それで王都という大舞台へと踏み出せた経験はシアの自信にも繋がったはずだ。
だが……、そもそも外出とは大なり小なり心身が疲弊する行為。しかも対人に恐怖を覚えるシアにはかなりの負担を生じる行いだ。
シアが不安なく祭りを楽しめるようにと俺にできる限りの配慮はしたつもりだ。無邪気にはしゃいで俺に向ける笑顔は最高の報酬だった。
そう――、王都の花祭へ出掛けたこと自体は悪くはなかった。
それでは何が悪かったのか。
「……」
きっかけは、レガリオ師弟と遭遇したことだ。
レガリオに対するシアの恐怖心と警戒心は最初と比べれば落ち着いている。だから俺がシアと手を繋いで傍にいればまだ大丈夫だと判断した。
だが、そのままナードと顔を合わせたのは失敗だった。
ナード自体に非はない。奴も訳アリの苦労人だから、他者の機微にはかなり敏感だ。
だから自分に怯えるシアに戸惑いながらもわざとおちゃらけた態度で無害をアピールして、シアの警戒と不安を緩和させようとしていた。
俺はそうわかっていたからナードをそのままにしたし、あわよくばシアがナードに対する警戒を緩めてくれればと思った。
狙いどおりというべきか、シアはナードに悪い印象を持たなかったようだ。ナードに対してレガリオとの初遭遇時のような不安発作を起こさなかったし、俺に冗談を言える程度には余裕があるようだった。
――……だが、心の底では相当なストレスが一気に蓄積したのだろう。
繰り返すが、ナード自身に非はない。非があるのは、ナードとの遭遇で生じたシアのストレスを軽視した俺の方だ。
「……チッ」
行き場のない怒りに思わず舌打ちしてしまう。
シアは男に対しての恐怖心が根強い。
――そして。その元凶である下道は、ナードと同じ年頃のガキだった。
それで……、シアは心の奥底で無意識に連想して、トラウマを刺激してしまった……。
そこまで考えが及ばなかった俺をぶん殴りたい。ちゃんとフォローしていれば、今宵シアが苦しむことはなかったかもしれない。
いや、そもそも――……。
「……ったく」
自分の前髪をグシャリと掴んで自嘲する。
――これまで俺はシアの過去には触れずにいた。下手なことをしてシアを傷付けたくはなかったからだ。
俺はシアの記憶を覗き見したから、シアの身に何が起きたのかを知っている。
シアも俺がシアの過去を知っているのだと知っている。
そしてシアのトラウマが軽減する暗示を掛けて、その効果でシアの心も安定しているように見えていた。
だからあえて話題にするような真似はしなかったし、シアからも具体的な内容を話してくるようなことはなかった。
――それがまずかったのだ、と。今ならそう思う。
表に出して発散できなかったせいで、シアの中では沈殿し続ける澱のようにストレスが蓄積していたのだろう。
俺が掛けた暗示など、所詮はその場凌ぎ。問題の先延ばしにすぎない悪手だったのだ。
カウンセリングとまでは呼べない代物だっただろうが、それでも適切なタイミングで話をする機会を設けるべきだったのだ。
そうすれば今回のように爆発したストレスが悪夢を見せる事態は防げたかもしれない。
俺のことなかれ主義が、知らず知らずの内にシアの心を疲弊させて苦しめていた。
そう思えてならない。
「――……はぁ……」
俺はひとしきり後悔して、頭を振る。
たらればに囚われていては駄目だ。肝心なのは、今後どうするべきなのかだ。
今回シアは耐えきれなくなって自分から過去を俺に吐き出した。――そうさせてしまった。
ならば俺は、これからどうするべきなのか。
「……」
俺の腕の中で眠っているシアを見つめて、その髪をそっと撫でる。
……疲れに加えて泣いた影響もあるのか、シアの体温が異様に高い。このまま知恵熱のようなものが出るかもしれない。
「よっ、と……」
シアの体を抱き上げて、俺のベッドに寝かせる。
シアが苦手な男である俺のベッドに寝かせるのはまずいかという懸念もあったが……、毛布を掛けるとシアは自分から毛布を掴んで頬に寄せた。そして俺の匂いが残る毛布に頬擦りして、幸せそうに表情が緩んでいる。
――……やれやれ。本当に俺が好きなんだな……。
「……」
ベッドサイドに移動させた椅子に腰掛けた俺は、シアの頭を撫でながら思考する。
これで仮に俺がシアの立場だったら答えは簡単だ。躊躇の欠片もなくトラウマの元凶をぶち殺して復讐をしていたに違いない。
復讐は何も生まないだとか、負の連鎖を引き起こすだけだとか、そんな綺麗事など知るものか。徹底的に嬲り痛めつけて後悔させて、残虐に殺す。
――――俺はそういう考えをする人間なのだ。
ああ……、いっそのことシアが関与しないところでそうしてしまおうか。
シアの敵は、俺の敵だ。
「……」
――落ち着け。論点をずらすな。目の前の現実から目を逸らすな。
今はシアのことを考えろ。
どうすればシアの苦しみを和らげることができるのか。そのために俺は何ができるのか。
「……っ」
思考のループに引き込まれていると――、セブが俺の左腕を押し上げながら左脇に割り込んできた。
俺を心配して来てくれたらしい。
「セブ……」
小声で名前を呼んで頭を撫でると、セブはフンと鼻息を吐きながら俺の膝に顎を乗せた。
セブは子犬の頃から俺の味方で、俺の良心だった。
こうして暗い思考の渦に囚われかけていると、いつも俺に寄り添ってくれる。
セブの穏やかなブルーグレーの瞳を見つめているとささくれ立った心が落ち着くし、セブの柔らかな毛並みを撫でていると心が軽くなっていく。
――……俺もシアにとってセブのような存在になれればいいのだが。
そう考えているうちに……、自分の中で少しずつ答えが見出せてきた。
「……」
俺の心根はセブのような優しいものではない。俺は聖人君子でも何でもない。
単にセブの真似事をするのではなく、俺は俺なりの在り方でシアと寄り添うべきだ。
「ん……」
小さく声を漏らしながら身じろぎしたシアの頭を撫でて、毛布越しにトントンとあやす。
俺がこうしてシアの傍にいるのは善人面したうわべだけの行為ではない。俺がそうしたいからだ。
――……ああ……。シアと共に過ごす日々の中で、少しは俺にも人間らしい心が芽生えたらしい。
「ははっ。今更、か」
まったく……、俺は本当にひねくれ者だな。
いい加減に自分を認めて、シアのためにも前を見て生きないとなぁ……。
「なぁ、セブ」
そう問い掛ける俺に、セブは優しく目を細めて俺を見つめた。
主人の俺よりも使い魔であるセブの方がよっぽど精神が成熟しているなぁ……。
そう思いながら苦笑した俺はシアに視線を戻すと、穏やかな寝息を立てているシアの寝顔が見えた。
ぼんやりとシアの寝顔を眺めて……。今の俺はほぼ徹夜状態であって、それで回らない思考が悪さをしているのだと自覚する。
深夜に考え事をして答えが導き出せたとしても、その答えは大抵が碌なもんじゃない。
そもそも、ぐだぐた考えずとも答えはシンプルだ。
ひねくれた屁理屈や御託は抜きでシアと真正面から誠実に向き合う。
ただ、それだけだ。
「な、セブ」
俺の膝からベッドサイドに顎を乗せ直したセブの真似をして、俺も椅子に座ったままベッドサイドに軽く上体を伏せた。
そうしただけで大きな欠伸が出そうになって、噛み殺す。
「……おやすみ、シア」
俺はシアの横顔をそっと撫でると、その傍らに組んだ腕を枕にして目を閉じた。




