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結・婦警は苦労し、科学者は最果てに至る

◇━◇━◇━◇━◇


 数分前、十王字ビル前。清寂する野次馬達の波の中。



 雲の隙間を開くかの如く、突如として天空から出現した巨大な灰色の腕の存在に、つい数分前まで馬鹿の1つ覚えのように騒いでいた野次馬達の声が止まる。

 今彼らの意識は統一されており、皆が皆1つの奇跡を目にしようと必死だった。

 自らが歴史の生き証人になるが為だけに彼らは己の危険も顧みず頭上を見上げ続ける。

 あれは神か。はたまた悪魔か。それともどれにも属さない異形の何かか。

 凡人が故に安全な場所から非現実を愉しもうとした彼らには到底理解できる筈も無く、例えこの後何らかの厄災が起きて彼らの命が絶たれる結果に終わっても、運が悪かったと一言で済まされるだろう。

 それほどに彼らはどうしようもなくどうでもいい烏合の衆であったが、そんな彼らにも手を差し伸べる相手が居ないわけではない。


「こらー!何やってるのー!早く避難しなさーい!!」


 異様な静寂を見せる東京の都市の中心部に、この場合では最も場違いな女性の声が響く。

 声の主である女性府警の藤鷲は、野次馬達と同じ様に天空から現れる説明不可能な存在を崇める上司達の制止も聞かずに1人白バイに跨って異様な街へと飛び出した。

 それから小1時間程、喉を痛めるのも顧みずに避難要請を呼び掛け続けているのだが、大人も子供も誰一人としてその場から動こうとする者は居なかった。

 無理矢理にでも連れて行こうと腕を引っ張ったりもしたのだが、


「何すんのよ!デカパイ!」

「邪魔すんな!ブス!」

「わー!おまわりさんに誘拐されるー!」


 と見事なまでに失礼極まりない無い暴言を吐きながら公務執行妨害に会わせてくる輩ばかりで、正直手の施しようがなかった。

 むしろ何故自分だけが正気を保っていられるのだろうと空を見上げた藤鷲は、ふと意図的に引き出されたかのように二種類の過去の出来事を思い出す。

 ひとつは昨日妹のように可愛いがっている少女2人が連れてきた、これまた説明不可能である自立駆動する謎の玩具の車。

 もうひとつは今日の昼間見た背中から羽を生やした少女。

 どちらも不思議と云えば不思議な出来事ではあるが、何故今のタイミングで同時に思い出したのだろうと1人推理に老け込む藤鷲の脳内に、ある共通点が思い浮かぶ。


「全部、灰色とか銀とか、地味な色してるのねぇ……」


 何となく呟いた言葉は確かにそれらの不思議体験の共通の点を的確に挿しており。

 それら全てがひとつの世界からやってきた異分子であることを、同時進行で起こっている事件から蚊帳の外である彼女が知る由もなく。

 その後すぐに彼女は無線機に入り込んできた避難者の情報を聞き付け相棒の白バイを走らせることになる。

 十王字ビルが浮き上がったのは、彼女がビルから抜け出した有名女性映画監督と数人の避難者を保護した少し後の話だった。





◇━◇━◇━◇━◇


「モエちゃん!!」


 美しい屋上庭園に少女の悲痛な叫び声が響き渡る。

 眼の前で親友が撃ち抜かれたことで激しく動揺し、急いで駆け寄ろうとする睦月だったが、その腕を安藤が掴んで引き寄せる。

 その右手に少女の身体を容赦無く撃ち抜いた拳銃を手に。


「こっちに、来い!」

「きゃっ!?」

「てめぇ!何してやがる!安藤!」


 元同業者の凶行に激昂し、近付こうとする真殿だったがその動きを安藤の余裕の無い叫び声が止める。


「うるせぇ!! いつまでもわけのわからねぇ会話に俺を突き合わせやがって!! こんな嘘みてぇなことがあってたまるか!? なぁ!!? おい!! そうだろ!!?」


 左腕で睦月の喉を抱き締めるように締め上げながら、その頭に拳銃を突き付ける安藤。

 真殿も自分に拳銃が突き付けられていたのならまだしも、見ず知らずの少女が人質に取られている状況で歩みだそうとするほど人間として腐ってはいなかった。

 後に残るのは地面に寝転がった白衣の男と、車椅子に乗った老人と、異形を怖れて腰を抜かした中年。

 誰も人質を救える者はおらず、安藤は久方ぶりの優越感に浸って下卑た笑みで真殿を睨む。

 その頭に冷静さという二文字の感情を失って。


「漸く目的を果たせるぜ……真殿。てめぇさえ殺せたらもう用はねぇ。俺はこのイカれた状況からおさらばできるし、後のことは碇の親父が全部世話してくれる」


 実際はできれば生け捕りにして連れてこいとの命令を受けていたが、数多くの超常現象を前に正常な判断を失ってしまった安藤にはもはやそんな簡単な判断もできない。

 ゴリラを連想させる強面の顔面の堀を深め、激情に呑まれながら更に力強く睦月の喉を締め上げる。


「うっ」

「おらっ! このガキ殺されたくなかったら両手を頭の後ろで組んで動くんじゃねぇ!」

「安藤……テメェどこまで腐ってやがる。親にハジキ向けた上に今度は堅気のガキか。極道として恥ずかしくねぇのかテメェは!!」

「うるせぇ!! 誰が好きでヤクザみてぇな社会の生ゴミになるかボケェ!!」


 安藤を止める為に吐き出した言葉が結果として彼を更に激情へと駆り立てて睦月を危険に晒すこととになり。

 締め上げる力を更に強めた安藤は激昂する。


「あの日! あの日なぁ! お前らが散々拘ってる二十年前のあの日の事件のせいで俺の人生は台無しだ! 当時の署長が責任逃れをしやがって、その責任を全部俺に擦り付けやがった!」

「だからってこんなこと」

「うるせぇ! 警察内部の情報を裏腹ってまで裏の世界に取り入ったんだ! 今更後に戻れるかよ! 俺は、俺はこの道でのし上がってやる!」


 拳銃の引き金が引かれるよりも、安藤の太い腕によって睦月の首が押し潰されそうになった直後。

 それを地面に伏しながら目の当たりにした志村は耐えられない感情の理由もよくわからないままただ自然に叫び出していた。


「睦月!!」

「霜北!!」


 ━━それよりも一瞬早く、睦月の安否を案じていたのは自分だけではないのだと、彼女の養父である霜北相次の叫び声を聞きながら。


「……」


 叫んですぐ自分以外の人間の叫び声に目を丸くする志村。

 その視線の先には、空から堕ちてくる灰色の異形に怯えながらも必死に娘を気に掛ける父親の姿があり。

 それを目にする自分の視界が僅かに滲んだのに志村は気が付く。


「っ、はっ。……そうか」


 小さく漏らした言葉は誰に向けた言葉でもなく。誰に聞かれることもなく。

 風によって完全に自分の声が消えたのを見定めて、志村は立ち上がった。


「ッ!? お、お前! 何勝手に立ち上がってんだ!! 殺すぞ!?」


 そこいらのチンピラと変わらない、低俗極まりない悪態をついた安藤の銃口は当然突然立ち上がった志村へと方向転換を行う。

 志村はただの人間である。

 背中から羽が生えているわけでもなく、銃弾が飛び交う中を人一人担いだまま走り抜ける超人でもなく。

 精神の面は度外視しても肉体の面においては間違いなく年相応に衰えた研究者に過ぎない。


「その女の子を離せ」

「しゃ、借金だらけのクズの分際でぇ!!」


 だから、もし激情に駆られ武器を持った狂人の前に立ち塞がったとしてもその狂気から自らを守る術だと持ってはいないのだ。

 至近距離で放たれる弾丸は狙いが外れることなく志村の右肩を刳り、真っ白な白衣が内側から赤く染まっていく。

 今まで受けた経験の無い反動に気が遠くなる程の激痛を覚えながら、志村は歩みを止めようとしなかった。

 真っ赤な血液が芝生の上に新たな花を咲かせようとも、彼の歩みは止まらず。

 やがて、化物を呼び出し、拳銃にも臆さない、得体の知れない堅気の科学者に怯え切った男の前に立ち塞がると、彼は生まれてから二度目の決心をする。

 大切な、大切な人を守ろうと誓う、決意を。


「オレの教え子を返してもらう」


 刹那。モエや真殿が放つのとはまるで違う、あまりにも不格好な形での正拳が志村の拳によって安藤の顔面へと叩き込まれ。

 大きくバランスを崩す安藤の腕から解き放たれた睦月を志村はそっと正面から抱き止める。


「……あれっ。センセー……?」


 暫しの間、安藤に首を絞め上げられ呼吸困難に陥っていたせいか、開放されたばかりの睦月の意識はやや朦朧としていた。

 きっと今何を言っても後の記憶には大して残ろないだろう。そう高を括って志村は睦月の顎を肩に乗せて決して顔は見せないまま、いつも彼女に見せる『志村センセー』として話始める。


「ボロボロだな。オレもお前も。お前はいつも汚れてるけど」

「あははっ……センセーひどーいっ。ていうか、センセーの方がボロボロだし」

「……確かにな」


 睦月が顎を乗せているのは左肩で、見えているのは精々左半身の志村だけ。

 彼女は志村の右肩の深い傷を知らない。だから彼女の心配は真っ先に親友へと向けられる。


「あぁ、そうだ……モエちゃん。モエちゃんが」


 朦朧とした意識のまま少し離れた所で倒れているモエへと手を伸ばす睦月。

 モエの近くでは既に真殿と霜北が無い知識ながら必死の応急手当を行っており、多少医療の知識がある志村の目から見てもすぐに病院に運べば助かるように見えた。


「アレは……大丈夫だな。お前と一緒だ。大分運が良い」

「そう……良かった」


 それだけ聞けば満足だったのか。深い眠りに落ちていくかのようにゆっくりと瞼を落としていく睦月。

 疲れ切った意識が徐々に安らかな眠りへと落ちていく直前に彼女が紡いだ言葉は、反して志村の疲労感を一気に相殺する程に衝撃を与えた。


「センセー……あのね。……ごめんな、さい」

「━━」


 それはまるで永遠の別れのような。

 はっとした志村が睦月の脈を確かめるが、問題なく動いている。目に見えるところでも一切外傷も無い。

 縁起が悪い睦月の言葉に一瞬悪い予感を感じながらも、無事が分かったところでほっと胸を撫で下ろす志村であったが、ふと彼女の眠りに落ちる直前の謝罪の言葉が気掛かりとして胸に引っ掛かる。

 彼女は一体何に対して謝罪したのだろう。

 答えは考えるまでもなく簡単で、知ってから理解しなければよかったと志村は後悔することになる。

 眠りに落ちる前に睦月は自らの手にずっと握り締めていた赤いポルシェのミニカーを志村の膝の上に落としていた。

 恐らくは意識が抜けたからではなく、眠る直前に意図的に。

 

 二十年前もの歳月の中で何度も繰り返し行った実験。

 その中で偶然開いた異界との扉の外側から現れたのは、志村にとって今は亡き父親からの唯一の贈り物であるこの玩具の中に何故か寄生した。

 志村が摘み上げるとガラス瓶の間越し以外では久しぶりに目にする赤いポルシェの外装には、志村をただ見つめる為だけに無機物には有り得ない眼球が浮き出ている。


「よう。久しぶりだな」


 少し期待したが、寄生体から言葉が返ってくることはない。

 サカキに打ち込んだ弾丸同様に、所有者である志村自身でさえも人類にとって大凡最大の未知である彼らのことは詳しくは分からないのだ。

 よくわからない。よく知らない。理解できない。

 そんな者に愛する人は奪われて、そんな者に頼って取り戻そうとして、そんな者に頼って危うく全てを失いかけた。


「志村。お前」

「残念ですけどオレは諦めませんよ。必ずミズハさんを助け出します。……ただ、その為に十分な準備をして色々なものを犠牲にしようとしましたけど、どうやらオレにはそんな覚悟は持てなかったみたいだ」


 伊鶴来の声に振り返ることなく、志村は眠りにつく睦月を支えながら立ち上がると、彼女の身体を彼女の養父である霜北に預ける。


「えっ」

「霜北……頼みます。今ならまだ階段を駆け下りれば間に合うかもしれな━━」


 と、少し無理がある提案を志村が言いかけたところで、屋上庭園全体に暴風が吹き荒れる。

 遂に雲の隙間からあの灰色の腕の本体が顔を出したかと誰もが空を見上げたが、彼らの双眸に等しく映ったのは、天を支配する化物ではなく、天空で踊る天使の姿。

 白い髪を靡かせ複雑な衣装を身に纏う天上の使い。

 この場の誰かを天に召す為に現れたと言われても誰も疑わない程に、その姿は美しく、生物らしき出で立ちでありながらこれでもかと洗練されていて、完璧だった。

 腰に、両目に涙を溜めた情けない顔の青年を抱き着かせていなければ。


「わー!!!もう腕の力の限界!!限界ぃ!!降ろして!!おーろーしーてー!!!」


 一体何処から飛んできたのか。

 巨大な銀翼を羽ばたかせる少女に抱き着いていた少年は限界とばかりに腕から力が抜けてしまい、空中庭園の床から5メートル程の高さから落下してしまう。

 運が悪ければ捻挫ぐらいの怪我は負ってしまうかもしれない高さだったが、たまたまその真下にはモエの応急手当を終えた真殿が立っており、自然な動きで少年の身体を受け止める。


「おっと」

「ひゃぁっ!?……あっ、あれ!?死んでない!?ど、何方か存じ上げませんが助けて頂いて━━ってひぃっ!?顔怖っ!?」

「……意外と度胸あるなお前」


 腕の中で怯え続ける青年に呆れて真殿が放り投げるように手から離すと、バランスを崩した青年は芝生の上で尻餅をつく。

 騒がしかった青年の登場に一時は周囲の視線も集束したものの、やはりこの場で最も目を引くのは銀翼の少女であり、すぐに彼女へと周囲の注目が集まっていく。

 しかし注目の的である肝心の銀翼の少女は全く屋上庭園の各々には興味を示しておらず、ただじっと雲を裂いて現れる灰色の巨大な腕を見ていた。

 腕は既に肘を通り越した辺りでも雲の中から顕現させており、空中に浮いた十王字ビルを掴んだ。

 同時に激しい揺れが十王字ビル全体を揺らし、このビルそのものが倒壊するか、巨大な腕によって雲の中へと連れて行かれるのも時間の問題であることを屋上庭園に居る人々に思わせる。


「やべぇな。早く脱出しねぇと。おい、そこの小僧」

「ふぇ!?ぼ、僕ですか!?」


 上空の腕よりも、周囲の明らかに気質には見えない人々を見て全身をガクガク震わせた青年は、真殿に声を掛けられただけで肩をまた一段と震わせて驚いている。

 気持ちが焦っているせいか、そんな様子に苛立つのを我慢しながら真殿はこの場に現れた最期の希望である彼に声を掛けるしかなかった。


「お前っていうか、其処の飛んでるお嬢ちゃんに頼みたいんだがな。怪我人だけでも連れて此処から避難してくれないか?」

「え!? け、怪我してる人がいるんですか!?」

「いるから言ってんだろ! 早くしろ!! やるのかやらねぇのか!?」


 怯える青年━━倭の言い分や此処に来た目的も聞かずに一方的に要求する真殿。

 そんなヤクザ風の相手に倭も最初は困惑していた様子だったが、少し離れた所に下腹部から血を流す黄色いパーカーの少女の姿を目にしてほぼ反射的にその名を口から漏らしていた。


篠薙(ささなぎ)さん!?」

「? なんだ知り合いか。なら話が早ぇ。頼んだぞ」

「え、ちょっ!?」


 特に話した事は無い高校時代のクラスメイトの負傷した姿に益々困惑しながらも、銀翼の少女を守ろうとヤクザ達の前に立ち塞がった時同様、正体不明の正義感に駆られた倭は空中に向かって叫んでいた。


「あ、あの!」 


 倭の呼び掛けにも銀翼の少女は振り返らない。

 今までにない集中力でビルを引き上げようとする巨大な腕を見続けている彼女には何を呼び掛けても無駄なのではないか。

 そう何処か諦めながらも倭が出来るのはただ言葉を掛け続けること、それだけだった。


「助けたい人がいるんだ!手を貸してくれないか!」


 瞬間。

 声を掛けた張本人である倭にも何が起因となったか理解できないまま、銀翼を羽ばたかせていた少女の肩が揺れる。

 振り返った彼女の表情はやはり無表情で、しかし宝石の如き輝きを放つ瞳が映すのは既に天上の異形から足元の何の変哲も無い凡人へと移り変わっていた。

 それから一瞬、養父の腕の中で眠り続ける睦月に視線を移したかと思うと、大きく翼を羽ばたかせる。

 倭の呼び掛けが通じたのかどうかは分からなかったが、翼を折りたたんで銀翼の少女が空中庭園の芝生の上に降り立つと、次々と空中庭園の人々の服の裾を掴んで一箇所に集めていく。


「うわっ」

「えぇ? そ、その羽本物?」

「……」

「待て待て。怪我人も居るんだって」


 真殿が安藤を、霜北が睦月を、倭がモエをそれぞれ担いで。

 伊鶴来も自身で車椅子を動かして銀翼の少女の元へ向かおうとしたのだが、途中志村だけがその場に佇んでいることに気が付く。


「お前は、やっぱり一緒に来ねぇのか?」

「ええ、まだやることがありますから。伊鶴来さん、コイツ頼みます。どうせ本当は歩けるんでしょ?」


 志村は慣れた手付きで撒き餌として利用されたサカキの首に注射を打ち込む。

 すると瞬く間にサカキの首に血管が浮き上がり、膨張を続けて肥満体を通り越して肉の塊のようになっていた身体がみるみる内に元のチンピラ風の姿へと戻っていく。

 意識を失っている彼の襟を掴むと、志村は車椅子に乗っている老人に向かって容赦無くその身体を投げ付けた。

 周囲の人々から見れば伊鶴来もサカキも両方共が怪我をする未来が目に見えてしまっが、結果としてそうはならなかった。

 常に立ち上がらなかった老人が突然難なく立ち上がり、サカキの身体を片腕で受けためたからだ。

 当たり前のように2足歩行で立ち上がる老人の姿を見て志村は苦笑を浮かべる。


「狸爺、ですね」

「誰も立てんとは言っておらんじゃろ」


 久しぶりに他人から皮肉を伝えられ、愉快気に肩を揺らした後、真剣な表情になった伊鶴来がゆっくりと頭を下げる。


「……娘を、どうか連れて帰って来てくれ」


 極道の長としてではなく、行方不明になった娘を案じる一人の親として。

 維持も矜持も捨て去った老人の願いに志村はただ力強く頷き、その右手に赤いミニカーを握り締めたまま歩き出す。

 もはや止める者は誰も居ないだろうと足を動かした志村であったが、予想とは裏腹に最期にもう一度背後から自分を引き止める者がいた。

 この期に及んで誰が居ただろうかと振り返ると、其処には全く見覚えのない銀翼を背中から生やした少女が佇んでいる。


「……ああ」


 見覚えも無いし、知らない。きっともう出会うことすらないかもしれない。

 それでも思うところが無いと言えば嘘になる。

 目の前で此方を見上げてくる少女に見覚えはなくても、その銀翼には忘れられない思い出があったのだから。


「そうか。ミズハさんからの転移の兆候が霜北……睦月に見受けられなかったのは、君が殆ど受け継いでしまったからか」

「……」

 

 少女は何も言葉を返さない。

 いつも通り。何も変わらず。

 少女自身もそう思っていた。



「━━()()()()()()()()



 それは伝えられた志村にとっても、伝えた銀翼の少女にとっても驚くべき送りの言葉だった。

 暫し目を見開いていた志村は、やがて寂寥に満ちていて何処か嬉しそうな笑みを浮かべると、銀翼の少女の頭を撫でて踵を返した。

 語るべき言葉は何も無い。

 銀翼の少女(かのじょ)に語るべき言葉は、全て愛しい教え子(かのじょ)に伝えたのだから。







 


 数分後。愛すべき邪魔者達は去っていく。

 銀翼の少女の翼が一瞬で屋上庭園の中心に集まった人々を優しく包み込んだかと思うと、閃光弾を連想させる強い光を放ち、その場から一瞬で消え去ってしまった。

 人間の理解を超えた瞬間移動を前にしても志村は別段驚いた様子も無く。

 1人、異形に引き摺り込まれていくビルの屋上に残っていた。

 正確には、人間以外も数に合わせれば彼の手の中に在る赤いミニカーの異形も残ってはいたのだが。


「あのチンピラはもう居ないからな。あちらの世界に行く餌としてお前を使わせてもらうよ」


 もはや雲の中へと飲み込まれるまであと数秒といったところで、最期の話し相手である手の中の異形に語り掛ける志村。

 しかし物を喋る口を持たない異形が何かを応える筈もなく、結果としてまたも志村の独唱という形になってしまう。


「お前はきっとオレを恨んでるんだろうな。でも、今更止まれないんだよ」


 初めて異界との門が開いた時。あちら側との扉から生まれ落ちたこの生命体は何故この玩具に寄生したのだろう。

 長年研究を続けて来たが異形達の寄生の仕組みは判明しなかった。

 何を理由として有機物に寄生するか無機物に寄生するか。宿主に寄生する以前から彼らに感情らしい感情は存在しているのか。

 二十年の歳月の中で唯一の研究結果とも呼べる赤いミニカーの異形は何も答えてはくれなかった。

 出来る事ならばこの小さな隣人の声を一度でいいから聞いてみたいとも思う。

 今はもう叶わない願いかもしれないが。


「……ああ」


 雲が近くなる。

 手を伸ばせば触れられるかもしれない距離にある雲を見ながら志村は眩しそうに目を細めた。

 実際に彼が見たのものは雲の隙間から見た太陽の光などではなく、無限に広がる闇の連鎖。

 形容し難い何かが無数に広がる全くの未知の世界。

 不安も恐怖も抱いている。しかし、これが彼の望んだ世界であり、決して結末などではありはしない。


「今行くよ」


 声は虚空に。はたまた未知なる世界に消えて行く。

 

 その後、志村の姿を目にした者は居ない。

 正体不明のテロリストによる十王字ビル占拠と、天空から飛来する巨大な異形の手によって連れ去られたビルの2大事件によって、彼が消えたという出来事さえ人々の記憶には残らなかった。

 全てを仕組んだ悪の科学者を覚えているのはほんの少しの邪魔者達だけ。

  

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