結・廻り過ぎた運命は空回りする
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科学的根拠の無い第六感はさておき、人が物事を認識する時、必ず五感のいずれかを使うと云われている。
特に視力は汎用性が高く、意識しなくとも常に使っている感覚である。
つまり『それ』が現れた瞬間、十王字ビル屋上とその付近に居た殆どの人間は意識せず、自然にその姿を目にしてしまったのだ。
空を割る巨大な手。
屋上から一直線に伸びた青白い光に呼応するかの如く、雲の隙間から生じたその巨大な手が目の錯覚で無いと真っ先に気が付いたのは誰だろうか。
その正体が明らかになることなく混乱が新たな混乱を呼んだにも関わらず、謎の存在の降臨に人々は脳内を激しく揺さぶられる感覚に陥りながら、誰一人としてその場から動こうとする者はいなかった。
普通ありえないことではあるが、もし震災が数分後に必ず起きると言われれば、誰だって出来得る限り避難なり自己防衛を敷くに違いない。
だというのに、つい数分前までビル内部のテロリストの動向に興味津々であった彼らは、皆が皆上の空といった気の抜けた表情で、口を開いて何かの顕現を待っていた。
恐怖が埋め尽くしいく脳内とは裏腹に。ひたすらに彼らは待ち望む。
「あ、あぁぁあ、あぁ」
今この瞬間。数百人にも渡る人間が、同時に奇跡を目の当たりにし。
誰一人として、生贄として意図的に集められていたとは思いもしなかった。
「別事件の『奴ら』には、此方側への生物・無機物への寄生の他に、『共食い』の習性がある。その習性を利用して、この青年に埋め込んだ肉を餌にあちら側の世界から新たな存在を呼んだ」
淡々と語る志村の足元では、呻き声を上げたサカキが絶えず内側から膨張を続けている。
先程の光は彼の口から生じた光で、志村の話が事実であるならば彼の存在が別の世界との扉を無理矢理抉じ開けたということになる。
随分とSFチックな話で本来であるならば誰も信じないような与太話ではあるが、真殿や伊鶴来の事情や、現在進行形で続く説明不可能な超常現象を目の当たりにすれば誰も余計な口は挟めない。
既にスカイツリー並の質量を雲の上から現した『それ』は未だに全体像を見せておらず、いつの間やら空全体を覆っていた雲から顕になっているのは人間の腕らしき巨像のみで、今も此方側の世界に来ようと進行を続けていた。
「ッ!!なんてもん呼び出してんだ!!ふざけんな!!」
ゆっくりと十王字ビルの屋上に向かって降りてくる『それ』に真殿は舌打ちをし、事の発端である志村を拘束しようと前に出るが、その脚はすぐに止まることになる。
志村が、寄生肉が埋め込まれた銃弾が装填された拳銃を、今度は真殿に向けていたのだ。
「てめぇ」
「真殿さん。黙って見ててください。貴方だって、ミズハさんに会いたいでしょう? オレだってミズハさんにとって貴方が大事な人だということぐらい判る。だからできれば殺したくはないんですよ」
「なら訊くが、あんなもん呼び出しててめぇは何をするつもりなんだ!!」
「だから何度も言わせないでください。ミズハさんを取り戻すんですよ」
温度の違う2人の会話は、志村の突き放すような冷たい言葉で区切られる。
実際、胸の内に刻々と膨れ上がっていく期待を潜めながら、志村は天空から徐々に降りてくる巨大な人間の腕を見据えながら再び口を開いた。
「二十年前。極道の娘として生きることが嫌になって家出したミズハさんをオレの父が名目上保護し、自らが所属する宗教団体の巫女とした。勿論、理由があってだ」
そう言って志村が白衣のポケットから取り出したのは古びた日記帳だった。
点在する染みや朽ち始めている質感から相当年季の入った物だと判断できる。
懐かしむ様に掌のそれを眺める志村とは対象的に、遠目からそれを目にした伊鶴来は僅かに目を開いて意識的ではない言葉を漏らす。
「それは、ミズハの……」
「これはミズハさんの部屋から出てきた日記です。中身はまるで呪術書のようでしたよ。『良くないモノに憑かれた』と得体の知れない何かに恐怖するミズハさんの悲鳴が永遠と綴られていた」
片手で掴んだ日記を志村は噛み締めるように握り締める。
その脳内に浮かぶのは、二十年前の事件後初めて訪れた教団本部の中に建てられたミズハの部屋の姿。
多くの教徒が殺害され血祭りに相応しい外見となった広間と比べて、事件当時誰一人として人が存在していなかったミズハの部屋は随分と綺麗な印象を受けた。
当時はあの日消えたミズハはもう生きてはいないだろうと諦めていたので、悪いと思いながらも志村は遺品探しの意味も込めて部屋の整理に取り掛かった。
結局。一日掛かけて見つかったミズハの私物は件の日記のみ。
他人の日記を読む行為には若干の抵抗もあったが、意を決して日記を開いた志村の目に飛び込んだのは、想像を絶する彼女の日常だった。
「ミズハさんは、『複数の異形』に取り憑かれていた。この場合、寄生されていたと言ったほうが正しいのかもしれないが」
綴られていたのは、正しく悲鳴だった。
毎日毎日、違う種類の悲鳴が綴られている。
ある時は火に炙られていて気が狂いそうだと。
ある時は常に誰かの視線を感じて眠れないと。
「共食いの習性がある異形達は、ミズハさんという一つの器の中で共食いを始めた。父さん達教団の導主はその苦痛からミズハさんを救おうとしたんだ。やり方があっていたかどうかは今となっては定かではないが」
驚くべきことに、教団の導主達が行っていた儀式とは、これらの苦痛から彼女を救う為の行為だったのだ。
それが本当に効果があったものであったかどうかは定かではない。所詮は世間から白い目で見られるカルト宗教団体の治療法。
中には志村が出会ったような儀式を方便にしてミズハをただの性処理道具として扱う非道な導主も居た。
ただ、日記には志村の父のことも綴られていたのだ。
感謝している。無理だと分かっても救おうと手を尽くしてくれている。
恨んでなどいないと。
「やがて、ミズハさんは儀式の過程で子供を身籠った。双子だったそうだ。誰の子供なのかもはっきりさせる為に一度ミズハさんを病院に預けるという話も出たそうだが、ある事実を知っていた父さんはそれを止めたんだ」
息を呑んで再び唇を開く志村。語り部に徹して独唱を淡々と続ける彼の静かな表情が、ある光景を見て一瞬にして崩れ落ちる。
果たして、志村の言葉が風に乗るのと、エレベーターが使えないということで有り余った若さの全てを使い切って階段を駆け上がった睦月とモエが屋上庭園に現れたのは、どちらが先立ったのだろうか。
「ミズハさんの子供にも、奴らは、異形は寄生していたんだ」
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小さい、本当に小さい頃の出来事を、時折思い出す。
それが何だったのかはわからないし、両親に聞いても答えが帰ってきたことは一度も無い。
今では幼い頃に見た夢では無いかと思ってすらいたが、先日の志村先生の忘れ物を目にした時、ウチの中の歯車が小気味良く噛み合ってしまった。
私は、その異形を知っていた。
誰か、全身血塗れの怖い顔の男の人に抱きかかえられたウチ。
それはまるで抱きかかえられた赤ちゃんが見るような視界で、その点から勝手に小さい頃の出来事だと決めつけていた。
とにかく、過去にあった現実であれ夢であれ、ウチは誰かに抱きかかえられて其処に居た。
左腕に抱きかかえられていたのがウチで、右腕の方には同じ様に違う赤ちゃんが抱きかかえられている。
灰色の砂漠と赤い空。こんな気味の悪い場所で赤ちゃん二人を抱いた血塗れの男の人は誰なのだろう。
不思議に思って記憶の中で首を傾げるウチの前に、『それ』は現れる。
巨大な彫刻。
そう形容するのが1番近い気がした。
まるで仏教の阿修羅像のように。天使に、悪魔に、人間に、動物に、昆虫に。様々な存在がそれこそ隔たり無く乱雑に集合している。
様々な存在が密集して、1つの存在として確立している。
神様。今思えばそう呼ばれる類の存在だったのかもしれない。
残念ながらこの後の記憶は酷く曖昧なのだ。
ただ、ウチと、もう一人の赤ちゃんを抱いたあの血塗れの男の人の言葉は忘れられずに覚えている。
人知を超えた存在の前に立ちながら、怯えることなく燃え盛る瞳で紡がれた言葉を。
━━必ず連れて帰るから。待っててくれ。
━━お嬢。
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「センセー?」
少女の力の無い声が屋上庭園に吹く風に乗る。
誰もがその声にそれぞれの感情を懐き、視線を向け、その中でも志村だけは絶望が形を成して目の前に現れたかのように顔色を悪くしていた。
「霜北。お前、何で」
震える声を漏らしながら志村はやがて睦月の横で彼女と同じ様に階段を駆け上がった来たばかりで息を切らすモエの姿を見つける。
途端、その空虚な顔色が悲痛と憎悪に呑まれた悪辣なものへと変化する。
「お前が連れてきたのか……!」
志村の考えは事実は異なる推理ではあるがモエは何も応えない。
彼女も蛇蛾樂によって暴かれたくはなかった自らの素性を明かされて、親友に対する罪悪感を抱いたままだった。
何も答えない少女に憤りを感じた志村は続け様にモエの直接の雇用主でもある伊鶴来に視線を向けるも、老人はやや嬉しそうな顔で首を横に振るのみ。
「俺は知らんよ。若い奴らは行動力があるからな。年寄りの予想を遥かに超えてきやがる」
「せ、センセー?」
理解が追いつかない志村に対し、この場に居るどう見ても一般人には見えない複数人よりも志村の存在が気掛かりでしょうがない睦月は、再度弱々しい声を発する。
「せ、センセー。何やってんの……?ほ、ほらセンセー引きこもりじゃん。外に出てる方がおかしいっていうか……。こんな所で、こ、こんな人達と、何のお話?」
「……」
「何で黙ってるの?ねぇ、何か言ってよ。センセー!」
少女の叫びに白衣の男はすぐに言葉を返せなかった。
この場に彼女が現れることは完全な想定外だった。そもそも女子学生達に連れられて町中で出会った時点で予定は狂わされていたのだ。
そこまで考えたところで志村は思い出す。
逆に今の今まで何故忘れていたのかと不思議に思う程の疑問を、唐突に。
「霜北。昨日、街で会った時オレが置いていった荷物をどうした?」
「えっ?」
いつもとは雰囲気の違う志村の問に睦月は一瞬気後れしてしまう。
彼が一体何のことを尋ねているのか。底知れない不安の前に立たされていた少女の頭では一瞬理解できなかったが、すぐにその問の答えが自らが背負ったリュックサックの中にあると知り、慌ててチャックを開いて中の物を取り出す。
睦月の掌の上に乗っていたのは赤いポルシェの玩具だった。
「は、ははは。ははっ。そうか。そういうことだったのか」
「何がおかしい」
突然気でも狂ったかのように前髪を掻き毟る志村に真殿が訝しげな視線を向ける。
対して志村は自身に向けられた視線など全く意に介さず、彼の意識は自分を慕ってくれる唯一の教え子に向けられていた。
「此処まで来たら運命を感じずにはいられないな。なぁそうだろ。そうだよな。お前が、よりにもよってお前が持ってきてくれるなんて」
「センセー。何言って」
「擬似的な『撒き餌』だけでは腕までしか召喚できなかったが、これで全部揃った」
瞬間。志村の言葉を起因としたかのようなタイミングで刹那的な揺れが起こる。
それが地面全てが揺れたわけではなく、十王字ビルそのものが宙に浮いたことによる揺れだとは屋上に居る誰一人として気付ける訳もなく、凡人には上空から徐々に迫ってくる巨大な手に怖れ慄くことしかできない。
「あっ!?な、なんだこれ!?なんだこれは!!?」
「ひぃいいいっ!!?」
もはや伊鶴来を人質に取っていたことも忘れて自身の安全のみを気にして地面に蹲る安藤と、次から次へと出現する超常現象に腰を抜かす霜北。
血縁関係の無い娘の霜北の姓を持つ睦月はその光景を目にして意図せず己の記憶を遡っていた。
実際には本当に過去にあった出来事か、はたまた幼少期に見た夢か判断のつかない記憶。
その中に出てきた異形の塊と、雲の隙間から地上に向かって手を伸ばす巨大な異形は、灰色の質感と良い類似点があるように思えた。
その記憶の中に現れる血塗れの男━━真殿の姿が此処にある状況といい。
「あの人」
何かの間違いであって欲しい過去と現在の状況はあまりにも似過ぎていた。
あと一つ足りない重要な点もあるのだが、睦月もまたこの常識から逸脱した異常な空間に閉じ込められた一人と化しており、正常な脳でその判断ができない。
この状況でまともな思考回路を保っていたのは極少数であり、徐々に降り掛かってくる厄災に恐れることなく冷めた目をしていたのは伊鶴来ただ一人だけだった。
「お前は、娘を取り戻そうとこんなことを起こしてくれたのか」
静かな老人の声には期待も憤怒も込められていない。
まるで今まさに視聴している映画の感想を述べるかのように、淡々と志村に尋ねかける。
相対する志村は素直に頷き、手にした日記帳を握り締めて額に近付けながら祈りの言葉を紡ぎ出す。
「ずっと、貴方には申し訳ないと思っていた。俺自身の個人的な感情もある。それでも、貴方から大事な娘さんを奪ったのは俺の、俺達の責任だ」
それは異界を求める科学者の台詞ではなく、白衣を脱いだあの日の少年の謝罪。
しかし、その瞳からは依然として怪しい輝きが消えることは無い。
「だから、必ず連れ戻す。オレが。他でもない、オレが!!」
覚悟の言葉を叫ぶと共に、幽鬼のような重い足取りでふらふらと人工芝生の上を歩き出す志村。
前髪に隠れた双眸からはやはり人間味を感じられず、空中の巨大な腕と同様に、ゆっくりと迫ってくる恩師の姿に睦月は恐怖を感じられずにはいられなかった。
「嫌っ」
反射的に発した拒絶を表す声が志村の足取りを一瞬重くさせる。
しかし、それは本当に些細な一瞬で、拳を握り締めた志村は己の内に生み出る気持ちの良くない感情を無理に押さえつけてすぐに進行を再開する。
「霜北。それを、渡せ」
志村は既に正気を失っている。
そう感じているからこそ彼を慕っている睦月でさえ危機感を感じて逃げる様に後退り、真殿も見ず知らずの少女を助けようと駆け出したのだが、それよりも先に志村の前に立ちはだかる影があった。
血塗れのテーピングを両手の指に巻いた、黄色いパーカーの少女。
見る者全てに敵意を向けていると誤解される目付きの悪い三白眼が、今だけは本心の敵意を用いて志村に向けられていた。
「モエちゃん……」
「何だお前は……其処を退け! 霜北! それを寄越せ!!」
立ち塞がるモエが誰かも認識できずに睦月の元へと走り出す志村。
モエは迫り来る志村に一瞬だけ憐れみを帯びた視線を送ると、やがて短い呼吸を吐いて、彼の脚首に自身の足を引っ掛けて強引に横に振り払った。
すると瞬く間に志村は体制を崩し、芝生の上に転げ落ちる。
武道を嗜んでいないどころか禄に運動もしてないを志村が受け身を取れる筈も無く、先程まで気持ち良く独唱を続けていた男とは思えないほどあっさりと惨めに地面に伏す志村。
「うがっ!?」
睦月はただ呆然と自身を守る為に目の前に立ち塞がってくれた親友の背中を見ていた。
「全部は、話せない」
罪悪感に蝕まれるのを感じながらも、モエの声は震えもせず酷く冷静だった。紡ぐことも違いなく、まるで達筆な淑女の文章をそのまま読み上げているような。
今までの乱暴でガサツな彼女からは想像もつかないような理性的な印象を聞く者に与える言葉の羅列。
「最初から全部嘘だったわけじゃないし、それでも真実ばかりとは言えない。アタシは自分の為に睦月に近付いたし、自分の為にお前を何度も守った。……でも、例え偽物の関係でも大切だったんだ」
力無く地面に転がった志村を抑えつけるモエの手の力が更に強まる。
言葉を向ける相手も睦月から志村へと変わっていたが、紡がれる言葉は同時に睦月への存在証明の意味も成していた。
「だから、アタシがお前を守る。誰に命令されたからでもない。アタシがそうしたいから、アタシはお前を守るんだ」
初めてあった時から、ずっと。
それを語るにはあまりに多くの時間が掛かる。
だから、これから少しずつでいいから繋げていこう。
それは自分だけではなく、誰にでもできることなのだとモエは知っていた。
「志村。アンタもそうだろ。理由なんか知らないけど、アンタもずっと睦月守って来たんだろ」
自分よりも十も歳の若い少女に返り討ちに合い、無傷のまま拘束されて諭される気分とはどういったものか。
同じ体験を経験した者はこの場に誰一人としておらず彼の気持ちを察せられる人はいなかったが、芝生の上に顎を置く志村の顔からは既に物事を客観的に考える理性を取り戻しているように感じ取られた。
その証拠に地面に伏した彼はそれ以上暴れることもなく、ただ黙って大人しくしている。
血塗れの拳を握り締め、武器を持った大人にも打ち勝った少女が逃げずに親友と向き合おうとして振り返った直後。
どうしていいかわからずに佇む睦月の前で、穏やかな笑みを浮かべるモエの脇腹を空気を読まない弾丸が貫通する。
「━━あっ、あぁ、嫌、そんな、嘘」
穏やかな笑みを浮かべたまま黄色いパーカーは内側から吹き出る血で濡れ、同じ様に周囲の芝生には次々と真っ赤な花が咲いていく。
それが親友であるモエの命を犠牲にして芽生えた花だと気付いた睦月が叫んだのは、言葉とは呼べない、現実を受け入れられない少女の悲痛な叫び声だった。




